親鸞聖人のご生涯をとおして

 「承元の法難」に会われた親鸞聖人は越後(えちご)へ流罪と決まりました。当時の規則では流罪は死罪につぐ重罪でした。聖人は輿に乗せられ、追立役人に警護されて、京都から逢坂の関、船で琵琶湖を北上、山路を越前越中、それから船で越後国分寺に程近い、居多ヶ浜(こたがはま)に上陸されました。
しかし、流罪という不条理な刑罰を被ったことについて、聖人は後年『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の後序に

「主上臣下、法に背き義に違し、忿をなし怨みを結ぶ。・・・中略・・・罪科を考えず、あるいは僧儀を改め姓名をたもうて遠流に処す。予はその一なり」

と述べられています。しかしまた、従容として刑に服された師法然を見るとき、聖人は「都から遠い越後という未開の地では、人々は生死に迷っているだろう。師法然が流刑になられたからこそ、越後の人々に仏の慈悲を説く機会がこの自分に訪れたのである。これも師から教えを受けたからこそだと感謝し、潔く配所へ赴こう」と師へのお陰と受け取っていかれました。
越後では、最初の一年は役人の監視下にあり社会から隔離されたままで、食は一日米一升、塩一勺だけで、翌年春になって種子籾をもらい、以後は自活の外に生きる道はありませんでした。自給自足に備えた、荒れ地の開墾も、流人の聖人が耕作できる土地は河原くらいだったのです。