親鸞聖人のご生涯をとおして

 法然上人の教えに帰依する人々が増え、門弟たちが急増するにつれ、庶民はもとより悪人女人(あくにんにょにん)の身でも念仏を称えれば往生(おうじょう)がかなうという教えは堰を切ったようにあっという間に広がっていきました。
そうした中を、吉水入室後四年の親鸞聖人に大きな喜びの日がきました。それは、師の法然上人から『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』の書写を許されたからです。この本は法然上人六十六歳の折、九条兼実の求めに応じて専修念仏(せんじゅねんぶつ)の根幹となる教義を撰述したもので、少数の優れた門弟のみに見写が許されていました。弱冠三十三才の聖人が書写を許されたということは上人から高弟として嘱望されていた証拠であります。親鸞聖人の感激はいかばかりであったでしょう。
しかし、この新しく台頭してきた吉水教団を快く思わない人たちがいました。特に比叡山の僧たちは、法然上人がこの山で修行した関係もあって、「念仏宗」という宗派をたてたことに対して特に強い近親憎悪感をいだいていたといいます。
一方、都では念仏が盛んになるにつれて、念仏者の中に勝手な振る舞いをする者がでてきたので法然上人は『七箇条制誡』をつくり門弟たちをいましめ、親鸞聖人も「僧綽空」とご署名になっています。
けれどもついに公然と非難の火の手があがったのです。今度は法相宗で南都仏教に強い影響力をもつ、奈良の興福寺が専修念仏の禁止を朝廷に訴えたのでした。この訴えは世に「興福寺奏状」といわれています。