法会・行事のご案内

第五世定専上人六百五十年忌法会 第十三世堯真上人四百年忌法会(10月25~27日)

25日  逮夜     午後12時30分
26日  晨朝     午前7時
     日中兼逮夜  午前11時30分
27日  晨朝     午前7時
     御参廟    午前9時
     日中     午前11時30分

 定専上人は、康永二年(一三四三)に第四世専空上人が示寂されたのち、十四歳にて住持職となられます。専修寺宝物館には定専上人二十歳のときの自筆書写本『後世語聞書』が伝えられていて、その奥書には「貞和五年(一三四九)ひのとのうし(丁丑)七月二十二日、南無阿弥陀佛、弥陀如來、釋定専二十歳」と、料紙から溢れんばかりの大振りの筆跡が残されている。この聖教は親鸞聖人が御消息の中で関東の門弟たちに繰り返し読むことを勧められた一冊であり、当時、本の題名に「聞書」・「見聞」・「抄出」などの言葉が付記されていることは、その本が先師からの相承本であることを示しています。
 専修寺文書(重要文化財)には、文和四年(一三五五)正月二十八日に「下野国高田如来堂 茅葺替料料足募財文書があり、このころの御堂には親鸞聖人自筆の賛名が記された「紺地十字名号」(絹本著色、縦180㎝)が本尊として御安置されていて、本寺御堂の最初の修理記録と考えられています。また、先代の専空上人の暦応元年(一三三八)に、京都の大谷廟堂の兵火による焼失の際、専空上人によって買得移築された廟堂に安置の親鸞聖人影像を脇壇移設しようとする動きを阻止するという文書も残されていて、これは、大谷廟堂の寺院化の動きを示す初期文書としても知られています。
 定専上人は、四十歳という不惑の年に示寂されますが、この後、関東の門弟たちと大谷廟堂との軋轢は新しい転回点を迎えます。(新 光晴)

 堯真上人は、天文十八年(一五四九)に専修寺第十二世堯慧上人の御長男としてお生まれになりました。
 天正八年(一五八〇)五月には権僧正に任じられ、正親町天皇から住持職の綸旨を与えられています。この綸旨には「堯応僧正御房」とありますので、この頃までは「堯応」と名乗られていたことが分かります。真慧上人によって建てられた御堂が前月の四月五日に焼失していますので、ひょっとすると堯慧上人はその責任を取って退き、嫡男の堯真上人に第十三世を託されたのかもしれません。
 焼失から二年後には御堂の再建が始まり、天正十六年(一五八八)には、祖師堂十八間、如来堂十六間の両御堂が完成しました。
 同年九月十一日から二十日までの十日間、御堂の落慶法会として千部会が営まれました。六十二歳の堯慧上人と四十歳の堯真上人の両上人がお揃いで御昇堂され、結願の日には天から妙華が降ったと伝えられるほど盛大な法会でした。
 この頃、豊臣秀吉や徳川家康は本山に禁制を出し、保護しています。特に秀吉は、文禄五年(一五九六)七月に一身田村の内に三百五十石の寺領を寄進しています。それは堯真上人の娘、鶴子様が秀吉に仕えていたことも関係していたのでしょう。
 堯真上人のご内室は、犬山城主織田信清の娘で、母は信長の姉でした。お二人の間には堯秀上人等五男三女があり、鶴子様はその御長女でした。しかし、秀吉が寄進した翌月の閏七月、鶴子様は慶長伏見地震に遭い、伏見城内でお亡くなりになりました。法名を妙孝院栄真大姉と名づけられ、その法名を寺号とした栄真寺が秀吉によって伏見に建立されました。堯真上人はこの時たまたま伏見城に居られ、鶴子様の死を目前にされたとも伝えられています。上人の御書に「それ人間は老少不定にして、無常転変の界なれば、いずれかこれをのがるべし。たとい長命たりというとも、たれか百年の形体をたもたんや。ああ楽はまた苦しみとなり、喜びはまた歎きのはじめなり」とあるのは、その時のご心境を述べられたものといえるでしょう。
 このように堯真上人は、戦国時代という動乱の時代を戦国大名たちと共に生き抜かれ、江戸時代の初め元和五年(一六一九)に七十一歳で往生の素懐を遂げられました。(清水谷 正尊)

 

教学院研究発表大会 (10月31日)

発表
 解脱坊貞慶は何を信仰していたのか  中村宜成
 「近角常観と現代」ー激動近代の仏教とその教訓ー  浦井宗司
 真宗高田派および専修寺に於ける紋章について  岡知道
 親鸞聖人の思索と表現ー国宝本『正像末法和讃』第4首をめぐってー  佐波真
講演
 「教誨師をふりかえって」  浄福寺住職、前総務 鈴木紀生 師
日時:10月31日9時30分より
場所:宗務院2階第1会議室

 

納骨堂法会 (11月3日~4日)

納骨堂法会は昭和三十八年に新しく納骨堂が建立されてより始められた法会であります。ご本山への納骨は宗祖聖人のお徳をしのぶとともに、亡き人も聖人の御廟のそばへ葬ってあげたいとの大きな願いが出されて以来、今ではかならず納骨するならわしが定着しました。納骨堂の加入者は先祖から親へと伝えられた報恩謝徳の姿をつぶさに拝し感じることです。法会は御影堂、納骨堂に於いて十一月三日、四日の両日、お日中をもって別時のお勤めが勤められます。
お日中 午前十一時より

 

秋法会 (11月5日~10日)

秋深まる中、各末寺では、お取り越しの報恩講が勤められる時期でもあります。ご本山では納骨堂法会に続き秋法会が勤まります。秋法会は春の千部に並び、秋の永代資堂の法会として、十一月五日より十日まで御影堂に於いて、前三日間は新加入者の法会、後三日間は昨年までの加入者の法会が、お日中をもって勤められます。千部、資堂講そして、この秋法会は、講への加入者(施主)があって勤められるところから施主法会と呼ばれています。
お日中 午前十一時三十分より

 

紅葉堂法会 (11月18日)

紅葉堂は、第19世円祥上人の建てられたお堂です。
昔、この場所には大きな樅(モミ)の大木がありました。
遠方からでも見える樅の大木は皆さんから本山参りの目印にされ、樅の木の先にとまった鶴が鷺(サギ)のよう見えたというほどの、素晴らしい名木でありました。
代々の御法主方が大変大事にされた木であったのですが、段々と枯れてしまいました。
そして当時彫刻の名手であった小古曽の願誓寺の義道住職に、枯れてしまった樅の木から仏像を作ってもらい、仏様のお堂を建てました。
庭園に紅葉が多かったのでお堂は紅葉堂という名前になりました。
紅葉堂法会は毎年11月18日午前十時三十分より、この紅葉堂で勤修されます。

 

中興上人御正当 (12月8日逮夜~10日日中)

高田派中興の祖第十世真慧上人は、永正九年(一五一二)十二月十日に御往生されました。真宗念仏の興隆をなし遂げられ、その偉大な業績をしのんで、他の御歴代の御正当よりは一日多く、三日間の別時の法会が勤められます。
出典 『高田山の四季』
お日中 午前十一時三十分より

 


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