ひとくち法話

ひとくち法話一覧
1~9話 にんげん 10~15話 三尊仏 16~27話 真宗の教え
28~34話 七高僧 35~44話 高田派 45~69話 親鸞聖人のご生涯
70~83話 お釈迦様のご生涯 84~92話 聖徳太子 93~102話 諸法会
103~110話 四苦八苦 111~122話 こころ 123~137話 真宗のことば
138~141話 迷信 142~147話 感動 148~152話 おまいりの心
153~ 聖人のおことば




ひとくち法話28~34話 ―七高僧―

第28話 龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)

  龍樹大士(りゅうじゅだいし)よにいでて 難易(なんい)ふたつのみちをとき
  流転輪廻(るてんりんね)のわれらをば 弘誓(ぐぜい)のふねにのせたもう 『高僧和讃龍樹讃第4首』
 龍樹菩薩は、お釈迦さまが亡くなってからおよそ500年後に南インドで生まれました。仏教に精通され、多くの書を著されたので「八宗(はっしゅう)の祖」「千部の論師(せんぶのろんし)」等と言われました。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が、七高僧の第一に挙げられたのは、ほとけになる道を「難易(なんい)のふたつ」にわけて、凡夫のわれらにも、ほとけになる道があるとお説き下さったからです。
 そのひとつは難行道(なんぎょうどう)です。これは陸路の歩行のようなもので、山あり谷あり、体力の限りをつくして苦行(くぎょう)するという聖者の道です。もうひとつは易行道(いぎょうどう)といい、阿弥陀如来の本願を信じ念仏を申すというわたしたちが救われる道です。それはちょうど陸路の歩行が困難であるのに対して「水路の乗船」のようなものだという巧みな比喩(ひゆ)で解説されました。
 聖人は比叡山での20年間にわたる自らの難行苦行の体験を通じて「流転輪廻のわれら」には易行道であればこそ、ほとけになれるということを明かされました。
 「弘誓のふね」は阿弥陀如来の本願をいいます。私たちのただひとつの救いの道であるから、深く信ぜよと聖人は導いてくださいます。
 ※「難行は、いわゆる仏心(禅宗)・真言宗・法華(天台宗)・華厳宗等の教えであり、易行は真宗である」『愚禿鈔』と聖人は説明されています。だからこの「難易ふたつのみち」は今日でも日本仏教の中に脈々といきづいていることに留意しましょう。

ひとくち法話No28 ―七高僧1― より

第29話 天親菩薩(てんじんぼさつ)

  釈迦(しゃか)の教法(きょうほう)おほけれど 天親菩薩はねんごろに
  煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)のわれらには 弥陀(みだ)の弘誓(ぐぜい)をすすめしむ 『高僧和讃天親和讃第1首』
 この和讃は高田派の同行ならば誰でも暗唱できる親しみ深いご和讃で、浄土高僧和讃の天親讃の第1首の和讃です。
 天親菩薩は世親(せしん)とも言い、七高僧の第二祖です。天親菩薩は今から1600年頃前、北天竺(きたてんじく)でお生まれになりました。お釈迦さまが亡くなられてから900年頃でしょう。
 兄の無著(むちゃく)さんと共に仏門に入り、初めは小乗(しょうじょう)仏教を学んでおられましたが、龍樹(りゅうじゅ)菩薩などからの影響もあり大乗(だいじょう)仏教に入られました。
 主著『浄土論』は、天親菩薩以後親鸞聖人に至るまで、浄土教の指針になったのでした。
 お釈迦(しゃか)さまの説かれた教法は多いけれども、煩悩いっぱいの私たち衆生(しゅじょう)は、阿弥陀如来の私たちを救わねばならぬという誓願以外に救われる道はないと言い切られたのです。
 天親菩薩の帰命一心の教えは、現代も生き続けています。
  信心すなはち一心なり 一心すなはち金剛心(こんごうしん)
  金剛心は菩提心 この心すなわち他力なり 『高僧和讃 天親讃第9首』
 なんと1600年も以前(4世紀)の頃の人とは思えない程の的確な言葉で「真実」が現代人に迫ってまいります。

ひとくち法話No29 ―七高僧2― より

第30話 曇鸞大師(どんらんだいし)

  斉朝(せいちょう)の曇鸞和尚(どんらんかしょう)は 菩提流支(ぼだいるし)のおしえにて
  仙経(せんぎょう)ながくやきすてて 浄土にふかく帰せしめり 『高僧和讃曇鸞讃第1首』
 七高僧の第三祖は曇鸞大師と申し上げます。今から1500年程前、中国の雁門(がんもん)、今の山西省太原(さんせいしょうたいげん)あたりのご出身です。
 近くの霊地五台山(れいちごだいさん)で出家されました。仏教をはじめ多くの書物を学ばれたので、後に四論(しろん)の始祖と仰がれるようになりました。
 しかし、病にかかり、まず長生きの方法を身につけねばと考え、当時の道教の権威であった陶弘景(とうこうけい)から不老長寿の法を学んで、仙経十巻を授けられました。
 喜ばれた大師はその帰途、洛陽(らくよう)で菩提流支(ぼだいるし)に出会ったので「仏教の中に、道教で説くよりも立派な不老長寿の法はあるのか」と尋ねましたところ、菩提流支は大地に唾をはいて、その愚かさを笑い「そんな仙経が何になるか、永遠のいのちを身につけるのはこのお経ですよ」といって、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』一巻を曇鸞大師に授け、長生不死の法は、仏教にまさるものはないということを力説されました。
 菩提流支の教えに深く感ずることのあった大師は、せっかく持ち帰った仙経を焼き捨てて、深く浄土の教えに帰依されたのでした。
 それからの大師は、道教はもちろんのこと自力修行の仏道をすべて捨てて、浄土の教えを明らかにすることに精進されました。
 この曇鸞大師のお導きで自力(じりき)と他力(たりき)の教えが明確になり、一層はっきりとお念仏がいただけるようになりました。

ひとくち法話No30 ―七高僧3― より

第31話 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)

 道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(562~645)は、曇鸞大師(どんらんだいし)が亡くなられてから、20年目に中国の大原にお生まれになりました。当時は釈尊の没後1500年以上経過していましたから、禅師の教えの根底には、末法(まっぽう)の世に生まれたという意識が流れていました。
 禅師は48歳の時、玄忠寺(げんちゅうじ)で、曇鸞大師の功績を讃えた碑文(ひぶん)を読まれ「大師のように知徳(ちとく)のすぐれたお方でさえ念仏門(ねんぶつもん)に入られたのだ。自分のような愚鈍(ぐどん)なものがどうして自力修行(じりきしゅぎょう)の聖道門(しょうどうもん)にとどまることができようか」と感動され、阿弥陀如来(あみだにょらい)のみ教えに入られました。
 そして『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を明らかにするため、『安楽集(あんらくしゅう)』を著(あらわ)されました。同時に田舎の7歳以上の子どもたちまでよくわかるように、お念仏を勧められたので、お念仏の声は天地にあふれるほどの盛況でありました。
 その道綽禅師を親鸞聖人は、次のようにご和讃しておられます。
  本師道綽禅師(ほんじどうしゃくぜんじ)は 聖道万行(しょうどうまんぎょう)さしおきて
  唯有浄土一門(ゆいうじょうどいちもん)を 通入(つにゅう)すべきみちととく 『高僧和讃道綽讃第1首』
 この末法の時代の私たちにあっては自分の努力で悟りを開き、仏になろうとする聖者(しょうじゃ)の道を通るのはとても難しいから私たちの進むべき道ではないとされました。そして、阿弥陀如来の願いに「はい」と、信順(しんじゅん)する他力念仏門こそが、仏にならせていただく唯一(ゆいいつ)の道であることを明らかにされました。このことを「ただ浄土の一門あり」と主著『安楽集』におっしゃっています。

ひとくち法話No31 ―七高僧4― より

第32話 善導大師(ぜんどうだいし)

 善導大師は、613年(隋の時代)に生まれ、681年、69歳で往生されました。当時、中国では『仏説無量寿(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)』の研究が盛んでした。大師は、29歳のとき、道綽禅師(どうしゃくぜんじ)を玄忠寺(げんちゅうじ)に訪ねて浄土の教えを学び、その中でも特に『観経(かんぎょう)』を深く学ばれました。
 『観経』は、精神を集中して(定善 じょうぜん)仏を観ることや、人さまに親切(散善 さんぜん)する功徳などが説かれていることから、人々に広く親しまれた経典で、大師以前までは、聖者のための経典という理解が主流でした。
 しかし大師は、道綽禅師の導きで『観経』の真意は、自力(じりき)で悟りを開くことのできる聖者のためのものではなく、自分の努力では、仏になる縁のない罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)がお目当ての教えであることを見抜かれたのです。
 従って著書の『観経疏』では、『観経』の今までの誤った解釈を正すものが主となっています。そして、阿弥陀如来の願力によって、罪さわりの多い迷いの生活をしている凡夫(私たち)が、浄土に往生できることを、いろいろな角度から明らかにされました。
 親鸞聖人はその功績を「善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)」
  善導ひとり 仏の正意を明らかにせり と讃(たた)えられました。
 大師は「真実の仏とは迷える人を救わずしてどうして仏といえようか、十方の衆生を往生させなければ仏にならないと誓って、大慈悲(だいじひ)(めぐみ)を完成された仏が阿弥陀仏です。この仏こそ真実の仏である。」と明言されたのでした。

ひとくち法話No32 ―七高僧5― より

第33話 源信和尚(げんじんかしょう)

 源信和尚(942~1017、76歳)は、不思議なお坊さまです。『往生要集(おうじょうようしゅう)』という大部な書物を著わされましたが、その書き出しは、地獄の話ではじまっています。
 最も恐ろしい地獄を「無間地獄(むげんじごく)」といいます。五逆罪(ごぎゃくざい)や四重禁(しじゅうきん)を犯した者が落ちていく地獄です。五逆罪は家族同士の殺し合いの罪であり、四重禁とは、殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)、妄語(もうご)です。殺し、盗み、淫(みだ)らな行為、うそいつわりです。この世で、こんな悪事を働いた者は、みんな無間地獄に落ちていきます。
 頭を下に足を上に吊されて、真っ暗闇の地底へ一人で吸い込まれていきます。どん底には、大蛇が毒を吐き、炎を吹き上げています。落ちた瞬間、体は八つ裂きにされ、その繰り返しで1万年もの責め苦に遭(あ)うと話されています。
 昔の子どもたちは、お寺や両親からこのような話をきいて育ちましたが、現在は仏さまの教えを聞く場がなくなって、自分が一番えらいとおだてられて育っていますから、地獄の恐ろしさを知りません。
 昨今のニュースをみると、そのつけが来て、家族バラバラで家庭は崩壊していくし、殺生罪の最たる残酷料理がもてはやされ、盗みぐらいは罪とも思わず、みだらな話は日常茶飯事(にちじょうさはんじ)化し、妄語で堂々と歩く世相となりました。
 源信和尚の説法は、まことです。親鸞聖人は、邪教が広まっている世をなげいて、是非手を合わせてお念仏が申せる世になってほしいと、源信和尚を高僧さまの1人に加えられたのでありました。

ひとくち法話No33 ―七高僧6― より

第34話 源空上人(げんくうしょうにん)

 源空上人は法然上人(ほうねんしょうにん)の名で親しまれています。
 上人は平安時代の末、崇徳天皇(すとくてんのう)の長承2年(1133年)4月、美作(みまさか)の国(現在の岡山県久米南町)でお生まれになりました。親鸞聖人より40年前のことでした。
 ご幼名は勢至丸(せいしまる)と申されましたが、勢至菩薩(せいしぼさつ)に似て、よほど智慧のすぐれたお方だったのでしょう。御父君は明石の代官の夜襲を受けて、亡くなられたのですが、その時、枕元に勢至丸を呼んで「父の恨みで代官を『敵討ち』してはならぬ。次はお前も敵対されて、これが代々続いて永遠に恨みとけないものであるぞ」とさとされました。
 この遺言が法然上人を仏道に向かわされたと伝えられています。
 上人の御事績は数多くありますが、中でも特筆すべきことは『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を著されたことでしょう。ここで老若男女や身分の上下に関係なく、お念仏一つでまちがいなくお浄土まいりができると説かれたのでした。
 比叡山を去り東山の吉水(よしみず)を拠点に説法される法然上人の許には、庶民も含めて群衆が門前市をなすようでした。ここへ親鸞聖人も観音菩薩の夢告をうけて馳せ参じられました。親鸞聖人は『教行証文類(きょうぎょうしょうもんるい)』の中の「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」に
  本師源空明仏教(ほんじげんくうみょうぶっきょう) 憐愍善悪凡夫人(れんみんぜんなくぼんぶにん)
  真宗教証興片州(しんしゅうきょうしょうこうへんしゅう) 選択本願弘悪世(せんじゃくほんがんぐあくせ)
と讃歎されたのでした。わが師法然上人がこの世に現れなかったら、浄土の真宗の教えを、庶民に届けることもできなかったと、上人の徳を称讃されたのでした。

ひとくち法話No34 ―七高僧7― より