ひとくち法話16~27話 ―真宗の教え―
第16話 仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、お釈迦(しゃか)さまが説かれたたくさんのお経の中から、次の3つのお経を「浄土の三部経」といって大切にされました。◎仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)
◎仏説観無量寿経(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)
◎仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)
この三経のうち、とくに『仏説無量寿経』を「真実の教」とお示し下さいました。
このお経には、すべてのわたしたちを苦悩の境界から救うのだという「阿弥陀仏」の大きな慈悲とお念仏のおはたらきが説かれています。
阿弥陀仏は自ら「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と名告(なご)り、私たちに救いの道を開いて下さいました。この心を私たちの親しんでいるご和讃に
生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀(みだ)の悲願(ひがん)の船(ふね)のみぞ のせてかならずわたしける 『高僧和讃龍樹讃第7首』
とうたわれています。
生きているということは、そのまま苦海の中にあるのです。その中に沈みあえいでいる私たちは弥陀の悲願の船(阿弥陀仏の本願)以外に救われる道はないのです。
人間の根源的な救いが南無阿弥陀仏であると教えてくださっているのが『仏説無量寿経』です。
ひとくち法話No16 ―真宗の教え1― より
第17話 本願(ほんがん)
永年の目標が達成(たっせい)したとき「ついに私の本願(ほんがん)が成就(じょうじゅ)しました」と使うことがあります。この本願という言葉は、仏教からきています。真宗のご本尊(ほんぞん)は、阿弥陀仏(あみだぶつ)ですから、いま、いうところの本願は、阿弥陀仏が誓われた根本の願いのことをいいます。本願は、十方(じっぽう)の衆生(しゅじょう)をめあてに誓われました。
1人も漏らさずに仏の国に救うというおこころです。そしてこのお心が南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)というお名号となって私たちに届けられました。
また、この阿弥陀仏の本願は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)だからこの世で仏縁のなかった者に、次の世までも見放すことなくお念仏を届けますという現世来世(げんぜらいせ)にわたる大変なお誓いであります。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、20年間も比叡山で修業して、仏になろうと努力、精進されたのに、結果は「私は、悟(さと)りをひらくために修行をしてきたが、修行すればするほど、私自身が罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫であり、無始よりこのかた常に沈没し、常に流転(るてん)して迷いの世界から抜け出ることができない私であることを知らされました」と告白されたのでした。
そして師、法然上人(ほうねんしょうにん)から、かかる浅ましき衆生を浄土に往生させるために阿弥陀仏の本願が成就されてあったことを知らされたのでありました。
だから、この真宗のご本尊である阿弥陀仏のご本願は、私やあなたをめあての本願であり、私やあなたが仏の国に生まれる唯一の大道です。
弥陀(みだ)の本願(ほんがん)信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にて 無上覚(むじょうがく)をばさとるなり 『正像末法和讃』
ひとくち法話No17 ―真宗の教え2― より
第18話 名号(みょうごう)
「名号」とは「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のことです。阿弥陀さまの「み名」です。阿弥陀さまは私たちに、「どうかお願いだから私の名をよんでおくれよ。必ず救うから。南無阿弥陀仏を受け取って安心しておくれ。きっと浄土(じょうど)へ迎え取るから」と呼んでくださいます。今、私たちが、その呼び声に応えて「南無阿弥陀仏」と称えたら、もう浄土へ生まれていく人生が決まるんです。もう迷わないでいい。何故なら、南無阿弥陀仏のみ名は、われわれの往生(おうじょう)に何の心配もないと言って下さる如来さまの言葉ですから。
「お前たちの、名をあげたい、得(とく)したい、人に勝ちたいという煩悩(ぼんのう)や、迷いは障(さわ)りにならぬから、安心して南無阿弥陀仏を受け取っておくれ」との呼び声が南無阿弥陀仏です。
体から噴(ふ)き出る欲や、怒りや、愚痴(ぐち)などをいっぱい抱えている私たちですが、なに1つ自分で処理することが出来ない。その出来ない私たちをそのままに如来さまが抱き取って下さるから、今の私のままで浄土への道を歩ましていただくことが出来るのです。迷いのない人生がそこに開かれるのです。
私たちが、南無阿弥陀仏と称える時、阿弥陀如来が、お浄土から6字の言葉にまでなって、私たち1人1人のいのちの底にまで届いてくださるのです。「今日も命を頂いてありがとうございます。南無阿弥陀仏」「他人の昇進を恨んだこのあさましい私でした。南無阿弥陀仏」「嫁にどぎつく言い過ぎた恥ずかしい私でした。南無阿弥陀仏」
お念仏(名号)を称えるということは、いつも如来さまと一緒に日暮らしするということであり、教えに遇(あ)っていることであり、光に遇っていることです。
ひとくち法話No18 ―真宗の教え3― より
第19話 本尊(ほんぞん)
真宗のご本尊は「阿弥陀仏(あみだぶつ)」です。お仏壇の中央・正面に安置されている仏さまです。木像・絵像・名号(南無阿弥陀仏)とお姿の違いはありますが、すべてきまりによってあらわされた「阿弥陀仏」です。この阿弥陀仏は、私たちを「無明煩悩(むみょうぼんのう)、われらがみにみちみちて、欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず(一念多念文意)」の衆生とみぬかれて、仏さまの方から、お浄土へ迎えとる道をひらかれた仏さまです。
親鸞聖人は和讃で
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなわし
摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる(浄土和讃弥陀経意第1首)
と、うたわれたました。「十方微塵世界」とは、全宇宙ということです。「衆生」とは生きとし生けるものです。すなわち、この世に生きるあらゆる念仏を申す私たちを仏さまはご覧になって、必ずお浄土に迎えますと誓われたので、「阿弥陀仏」と申し上げるのです。聖人はこのように教えてくださいました。つまり「阿弥陀仏」は、この約束で世に出られた仏さまです。
さらに、阿弥陀仏以外の仏さま(諸仏)は、この「阿弥陀仏」のお誓いがまちがいないことを証明するために出られたのだとのべられています。『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には「念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」と阿弥陀仏が念仏を称える人々を平等に救いとるご本尊のおこころをお示しくださっています。
「阿弥陀仏」は私たちが救われる唯一の仏さまなのです。
ひとくち法話No19 ―真宗の教え4― より
第20話 念仏(重誓偈)〔ねんぶつ(じゅうせいげ)〕
「我建超世願(がごんちょうせがん)」で始まる偈文(げもん)があります。これは『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』において、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が、自らおこされた48の誓願(せいがん)を、師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)にむかって表白(ひょうびゃく)され、その表白が終わった後、頌(じゅ)(詩句)として説かれているものであります。48願で述べられていることを重ねてうたっておられることから、『重誓偈(じゅうせいげ)』と呼ばれています。この偈文は、その始めのところに「誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)」という句が3回おかれています。そこからこの偈文は『三誓偈(さんせいげ)』とも言われています。
三誓のなかの第一は「必至無上道(ひっしむじょうどう)」というものです。この上ない道とは、おさとりの道であります。必ずおさとりの道に至させたい。もしこの願いが満足されることがないのならば、私は仏にならないという誓いです。
第二の誓いは「普済諸貧苦(ふさいしょうびんぐ)」というものです。もろもろの貧しき人々、苦しんでる人々を救っていきたい。もし、そのことができないのならば、私は仏にならないという誓いです。
第三の誓いは「名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)」というものです。「名声」とは、お念仏の声です。私が仏になりました時にはお念仏が広くいきわたりますようにという願いであります。
この三つの誓いのうち、第一の誓いと第二の誓いとは、第三の誓いの中にあらわれているのでしょう。お念仏の中には法蔵菩薩の「必至無上道」という自利(じり)の願いと「普済諸貧苦」という利他(りた)の願いがこめられているのであります。
聖人は、「大小の聖人、重軽(じゅうきょう)の悪人、みな同じく斉(ひと)しく選択(せんじゃく)の大宝海に帰して、念仏成仏すべし(教行証文類行巻)」とすすめておられます。
ひとくち法話No20 ―真宗の教え5― より
第21話 他力(たりき)
何もしないで、他人まかせで甘い汁を吸うような事を表現するのに、他力本願という言葉が使われています。真宗の他力の救いをこのように理解している人はいないでしょうか。これは、間違いであり誤解です。親鸞聖人は、比叡山における20年間の自力修行(じりきしゅぎょう)によっては、どうしても生死(しょうじ)出(い)ずべき道が得られず、苦悩の末に吉水の法然上人を尋ねて、他力念仏に転入されました。
そのことを自ら「雑行(ぞうぎょう)をすてて、本願に帰す」と述べられました。
本願とは阿弥陀仏が誓われた根本の願いです。私たちを救わずにはおかないという誓いです。この阿弥陀仏のお誓いを疑いなく素直に信じて、お任せすることが肝要(かんよう)であります。これを他力といいます。
聖道門(しょうどうもん)の人(ひと)はみな
自力(じりき)の心(しん)をむねとせり
他力不思議(たりきふしぎ)にいりぬれば
義(ぎ)なきを義とすと信知(しんち)せり 『正像末法和讃 54首』
と、聖人が和讃されておられます。
「義といふことは、はからうことなり、行者のはからひは自力なれば義というなり、他力は本願を信楽(しんぎょう)して往生決定(おうじょうけつじょう)なるゆへにさらに義なしとなり」と聖人のお手紙にも度々書かれております。すなわち真宗の教えでいう他力は、他人(ひと)まかせのことではなく、また、物理的な自然現象でもなく、阿弥陀仏のお働きをいうのです。仏力(ぶつりき)です。
ひとくち法話No21 ―真宗の教え6― より
第22話 現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)
念仏往生(ねんぶつおうじょう)の願因(がんにん)により必至滅度(ひっしめつど)の願果(がんか)をうるなり
現生(げんしょう)に正定聚(しょうじょうじゅ)に住(じゅう)し
必ず真実報土(しんじつほうど)にいたる 『浄土三経往生文類』
親鸞聖人(しんらんしょうにん)がお念仏の功徳(くどく)、お念仏の喜びの極致をしめされました。念仏者の力強い確信をあらわしてくださいました。
さて、どうでしょうか。この聖人のお言葉を声に出して読んでいただけませんか。何回も大声で読んで下さい。さらに、たくさんの人と一緒に唱和(しょうわ)したら、なおすばらしいと思います。
読み上げていると、静かに喜びがわいてまいります。
阿弥陀仏(あみだぶつ)の念仏往生(ねんぶつおうじょう)のご本願(ほんがん)のおかげで、浄土(じょうど)へ往生し、仏さまになります。このご本願を聞いて、念仏し、確かな、確かな人生をすごさせていただくのです。そして、必ずお浄土へと往生させていただくのです。
私たちは、今の今まで、煩悩(ぼんのう)に狂って生き、迷ってきました。過去の罪障(ざいしょう)に悩み、苦悩の連続でした。だが、今この文を聞いています。私に、この文を読ませてくださっています。
阿弥陀仏の願いは、私をこの世において、必ず成仏する仲間に入れて、不退(ふたい)の位につかせようと言われるのです。
南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の六字は、その阿弥陀仏からの、呼び声です。
ひとくち法話No22 ―真宗の教え7― より
第23話 往還二廻向(おうげんにえこう)
「廻向(えこう)」という言葉は、「廻転趣向(えてんしゅこう)」という意味で、人間の心をひるがえして、仏に帰依(きえ)することをいいます。それがすべて菩薩の自力の働きですが、阿弥陀仏の働きのお手まわしであります。この廻向に2種あって、ひとつは往相(おうそう)の廻向、ふたつは還相(げんそう)の廻向といいます。往相の廻向とは、阿弥陀仏(あみだぶつ)のお力で浄土に生まれていくことです。阿弥陀仏の手もとにおいてできあがった救いの手だてなので「廻向成就(えこうじょうじゅ)」といいます。
それが「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の名号となって、私たちの心に「真実(まこと)の信心」となり、口にご恩報謝(おんほうしゃ)の「お念仏」となってあらわれて下さいます。いいかえればこの心〔信心(しんじん)〕行〔念仏(ねんぶつ)〕は、ほとけさまの慈悲心(じひしん)が、私たちに届けられたという証拠なのです。
次に還相の廻向とは、浄土(じょうど)に往生してのちに再び娑婆世界(しゃばせかい)に還(かえ)ってきて、阿弥陀仏の活動に参加させていただくことをいうのです。還相の菩薩(ぼさつ)として活動をさせていただくということは、阿弥陀仏の慈悲心の極(きわ)まりといえましょう。
「往(ゆ)く」も「還る」も、ただ「南無阿弥陀仏」です。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、七高僧(しちこうそう)などすべての善知識(ぜんぢしき)を、浄土からお迎えにこられた方々〔還相廻向の菩薩(げんそうえこうのぼさつ)〕として仰がれたのでした。
ひとくち法話No23 ―真宗の教え8― より
第24話 二種深信(にしゅじんしん)
辶(しんにょう)のままで迎(むか)える米寿(べいじゅ)かなある寺の伝道掲示板にかかれていました。「迷ったままで88歳にもなりました」というほどの意味でしょう。はじめは何とも寂(さび)しく空(むな)しいことだなと思いましたが、何度も口ずさんでいると阿弥陀仏のご本願にあえた喜びが伝わってきました。
中国の善導大師(ぜんどうだいし)が「わが身は、現にこれ罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫(ぼんぶ)にして、昿劫(こうごう)よりこのかた、常に没し、常に流転(るてん)して出離(しゅつり)の縁あることなし」(機の深信 きのじんしん)と現在、過去、未来の3世を通して救われようのない自分であることを深く表白(ひょうびゃく)されています。その大師のお心に通じるものをこの句から感じました。
大師は、続けて「阿弥陀仏のご本願は、かかる衆生(しゅじょう)を摂受(しょうじゅ)したもう。疑いなく慮(おもんばか)りなくかの願力(がんりき)に乗ずれば、定めて往生を得る」(法の深信)とのべられ、阿弥陀仏のお誓いを仰がずにおれない心の確立(かくりつ)こそ大事であると教えられました。
思うに私たちの日常生活は、勝った負けた、損した得した、好きや嫌いやの日送りであり、これが迷いであるとは考えてもみないことです。これが最も救いようのない生き方です。罪悪生死の身であることの自覚は、阿弥陀仏の光にあった証(あか)しです「迷のままで迎える米寿かな」は、この二種深信という教えを通して、すでに仏さまの呼び声を聞いておられるよろこびの歌だったのです。
迷い続けているままが、仏の光に照らされているということでありました。
ひとくち法話No24 ―真宗の教え9― より
第25話 凡夫(ぼんぶ)
アメリカの青年が「アメリカ人は、どんなに自分が悪くても、ごめんなさいとは謝らない。ひとこというと、裁判は負けるし、お金を出さねばならぬから」とテレビでいっていました。私はこれがアメリカ人の生き方かと驚きました。詩人の相田みつをさんが「損か得か 人間のものさし」といいました。私たちは、心で思うこと、身で行うこと、口で言うことすべて、どんなささいなことでも、自分の都合に立って、損か得かを判断して、ことに処しています。それが当然と思っていたのに、「うそかまことか ほとけのものさし」に照らしてみると、私たち人間のエゴ丸出しの汚い根性と映し出されてきます。
家族の間にも、子どもは子どもの考えで、親は親の権威で、夫は夫の立場で、妻は妻の都合でものをいうので、意見が違うのが当たり前です。そして、自分こそが正しいと張り合うのです。
一般に凡夫というと、愚か者、平凡人、迷えるものなどの意味で使っていますが、親鸞聖人は
「凡夫」というのは、無明煩悩(むみょうぼんのう)、われらが身にみちみちて、欲もおおく、
いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおくひまなくして、
臨終の一念にいたるまで、とどまれず、きえず、たえず 『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』
と、くわしく凡夫という者の心の千変万化(せんぺんばんか)をお示しくださいました。いいかえると、特別なものを凡夫というのではなく、自分の都合を片時もはれることのできない私やあなたのことです。
真宗はこの「凡夫」がお目当ての教えです。
ひとくち法話No25 ―真宗の教え10― より
第26話 歓喜会(かんぎえ)
真宗では、お盆を「歓喜会(かんぎえ)」といっています。高田本山では、8月14日から16日までの3日間「歓喜会」がつとまります。そして、この期間は、境内で地元のみなさんによる盆おどりがあって、たくさんの人々が集まって賑やかなひとときをおくります。なぜ盆会のことを「歓喜会」というのでしょう。親鸞聖人は「歓喜」というは、「歓」は身のよろこびです。「喜」は心のよろこびですと解説されています。身も心もよろこぶという、大変なよろこびようを「歓喜」と教えられました。
では、こんな喜びはどんなときにあらわれるのでしょう。親鸞聖人は「私たちが、仏さまの本願(私たち凡夫を必ずお浄土に救いますという願い)を信じて、お念仏を申す心になったとき、このような大きな喜びが自然にでてきます」と申されました。
すなわち、仏さまからいえば、本願が確かであったという証明になり、私たちからいえば、すべておまかせできたという安堵(あんど)であり、仏と私がともに喜ぶさまが歓喜といえます。また「歓喜」というのは、私の自力の限りを尽くしても不可能であった人生課題が、仏さまの願いによって氷解(ひょうかい)した時の喜びですから、日常生活上の喜怒哀楽(きどあいらく)とは次元の違う大きな喜びでもあります。
盆会を「歓喜会」というのは、このような深い大きな意味がこめられているのです。人と生まれ、しかも仏法に遇い得た(あいえた)という不思議ないのちの因縁は、ただただ仏さまからの賜わりものですと「歓喜会」のご縁を通してよろこばせていただきましょう。
ひとくち法話No26 ―真宗の教え11― より
第27話 お浄土(おじょうど)
「人は死んだらしまいさ、地獄や極楽なんてありはしないさ。生きている間に、好きなことをしなくては・・・。」よく世間で聞く話ですが、このような人は、「生死(しょうじ)」の問題を他人のこと、世間のことと考えて、自分のこと、自分の問題と本気に考えていないからではないでしょうか。
世はまさに何が起きるかわかりません。私自身は常住ではありません。いつか必ず命も傷つき終わります。明日がその日にならんとも、です。
親鸞聖人(しんらんしょうにん)は「弥陀五劫思惟(みだごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞1人がためなり」と言われました。浄土があると信じることは、他人事ではなく私自身の信心の問題です
私たちは死んだらお浄土に往生させてもらう以外にないのです。
お浄土とはどんな所でしょうか。
阿弥陀仏が成就された世界で、阿弥陀経(あみだきょう)や観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、実に美しくて、すがすがしく、にぎやかな世界であると説かれています。
この頃の仏教学は理屈が多く、浄土の有無(うむ)を論じたり、いろいろ経典の比較論考をしたがり、理論や知識に溺れがちですが、お浄土のことについていえば、お浄土は私にとって、なくてはならない仏さまの世界であるのです。
『世尊我一心(せそんがいっしん) 帰命尽十方(きみょうじんじっぽう) 無碍光如来(むげこうにょらい) 願生安楽国(がんしょうあんらっこく)』なのです。
このようにいただけば、この世〔現生(げんしょう)〕の生き方も浄土への道程と領解できましょう。
ひとくち法話No27 ―真宗の教え12― より
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