生活の中のことば

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生活の中のことば121~130話

第121話 殊勝(しゅしょう)

 仏教では、最もすぐれていることを「殊勝(しゅしょう)」といいます。
 『正信偈(しょうしんげ)』には、阿弥陀(あみだ)ほとけの誓いを「無上殊勝(むじょうしゅしょう)の願(がん)」とのべられています。世間でも、心がけや行いが健気で感心なことを「殊勝な心がけ」などと使います。

―ひとくち法話No121より―

第122話 和顔(わげん)

 いつもにこやかで、柔和(にゅうわ)なほとけさまのお顔のこと。経文(きょうもん)には、やさしいことばとあわせて「和顔愛語」とでています。
 私たちの生活の中でも、このようなほとけさまのお姿やおこころにあやかりたいものと、よくこの語句が使われています。

―ひとくち法話No122より―

第123話 分別(ふんべつ)

 わけへだてをするこころ。経典には「衆生(しゅじょう)は邪見(じゃけん)をもってのゆえに、心に善・悪、美・醜、損・得、有・無 などと分別して、かえって苦の因となる」と教えています。世間では、常識的に物事を判断する人を分別のある人と評します。最近は、違うものを別々にわけることを「ごみの分別収集(ぶんべつしゅうしゅう)」などとこの文字を使っています。

―ひとくち法話No123より―

第124話 驕慢(きょうまん)

 驕(きょう)は、人をあなどること、慢(まん)は、おごりたかぶることです。何ごとにも自己主張が強く、他人を見くだすこころや態度をいいます。仏教では根本煩悩の一つとして、きびしくいましめられており、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『正信偈(しょうしんげ)』に私たちのことを「邪見驕慢悪衆生(じゃけんきょうまんあくしゅじょう)」とのべられています。

―ひとくち法話No124より―

第125話 永劫(ようごう)

 「劫(ごう)」は、仏教で用いている長い時間の単位です。だから「永劫(ようごう)」は、非常に長い年月のことをいいます。和讃の中に、無始よりこのかた娑婆(しゃば)の苦悩の中でどっぷりとつかっている者が、ようやくお念仏のご縁にあって、往生浄土するさまを、「娑婆永劫(しゃばようごう)の苦をすてて、浄土無為(じょうどむい)を期(ご)する」と表現されています。
 一般には永劫(えいごう)と読んでいます。

―ひとくち法話No125より―

第126話 因縁(いんねん)

 物事のすべては、因(いん)〔起原(きげん)〕と縁(えん)〔作用(さよう)〕によって決まっていくという。これは仏教の根本道理です。従って私たちは、この道理の上で、どう生きていくかが問われます。生き方次第で結果が変わっていくというのです。
 だから吉凶禍福(きっきょうかふく)は、人間の意志にかかわらず受けるものだとする宿命論(しゅくめいろん)や、物事は前世から決まっているという運命論(うんめいろん)などは、仏教の道理ではありません。

―ひとくち法話No126より―

第127話 蓮華(れんげ)

 ハスの花。この花は、陸地では生えず、卑湿(ひしつ)のどろ水の中から生ずる清楚な花なので、それはちょうど煩悩具足(ぼんのうぐそく)の泥の中で生きている私たちが、浄土に生まれるに喩(たと)えた花となっています。『阿弥陀経(あみだきょう)』には「お浄土の蓮華は、大車輪のようで、青色青光(しょうしきしょうこう)、黄色黄光(おうしきおうこう)、赤色赤光(しゃくしきしゃっこう)、白色白光(びゃくしきびゃっこう)と咲いて、微妙香潔(みみょうこうけつ)です」と紹介されています。

―ひとくち法話No127より―

第128話 得度(とくど)

 「度(ど)」は、わたるという意味です。迷(まよ)いの世界から悟(さと)りの世界へ度(わた)り得ることで、僧侶(そうりょ)になる儀式をいいます。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)が9歳で得度されたので、真宗(しんしゅう)は各派(かくは)とも、9歳になったら得度を受けることができるという慣(なら)わしになっています。

―ひとくち法話No128より―

第129話 濁世(じょくせ)

 濁(にご)り、けがれた世を濁世(じょくせ)といいます。仏教では、現代そのものを末法五濁(まっぽうごじょく)の世と教えています。
 五濁とは「①疫病、災害、戦争が多発する ②思想が悪化する ③本能のままの生活をする ④人間の品格が堕落(だらく)する ⑤いのちを無駄にする」です。
 昨年は「偽(ぎ)」の世相でしたが、これはまさしく濁世であることの証明でありましょう。

―ひとくち法話No129より―

第130話 尋常(じんじょう)

 変わったところがない、平生(へいぜい)のこと。
 聖人は、「つねのときなり」と左訓(さくん)されて、信心も念仏も尋常の時節(じせつ)にこそ大事であって、臨終(りんじゅう)を待つべからずと申されています。

―ひとくち法話No130より―