高田本山 専修寺の歩み

 第2世 真仏上人
 上人は、父の没後、真壁の城主となられたが、舎弟に譲って、出家、聖人の弟子となられた。聖人は帰洛にあたり、専修寺の護持を上人に委ねられ、「向後 予門弟等 以真仏 可仰親鸞」(正統伝)と仰せられたという。聖人の高田在住に比べて、30年の長期にわたり、高田本寺の護持に尽くされ、高田門徒を導き、真宗教団の頭領としてその任を全うされた。諸国を巡化、また上洛されては、聖人を奉伺、聖人もまた撰述の聖教を授与、書写を許され、消息を与えられた。『経釈文聞書』(夢記)など重要な資料が高田本山宝庫に収蔵されている。上人滅後、50年あまりして建てられた「報恩塔」もまた上人の御高徳を示すものである。


 第3世 顕智上人
 化生の人と言われ、『高田三祖伝』には「越後の井東基知が、富士山より連れ帰り、次で叡山に登りて10年研学、帰りて野州を尋ねて聖人の弟子となる」と、その後、健脚に任せて教化は各地に及ぶ。
 真仏上人とともに、三河路に法筵を開かれたこともあり、洛陽の聖人をしばしば奉伺した。
 鎌倉にて大覚禅師より贈られた払子は永く愛用し、化寂の朝、金堂に残して去る。勢州三日市に残る「オンナイ」行事は県無形文化財。


 第4世 専空上人
 せんぐう上人は、下野国真岡城主大内国行の第3子であるので、世人は尊んで、「大内の上人」と呼んでいた。顕智上人は、高田の後継者として教育指導せられ、自筆の文書なども与えておられ、「顕智上人、84才 専空18才にて給わる」とある。本寺の護持はもちろん、大谷祖廟の再建、遠く奥州に行化、『口伝抄』を著わし、『聖法輪蔵』を書かれた。真筆は揃っていないが、寂玄の書写本がある。


 第5世 定専上人
 御令兄が蒲柳の質であった為、14歳で住持職を継がれた。聖人が絶えず読むことをすすめられた『後世語聞書』を書写、表紙に「釈顕智」とあるから、顕智上人所持本を見られたらしい。『自要集』は29歳の著、刊本奥に「釈真慧法印」とある。願誓寺義譚は明治3年、安居に、30回にわたって講じ、竹内宜啓は「松のみどり」第1号より第5号まで講じている。


 第6世 空仏上人
 定専上人が40歳で寂せられたので、住持職を継承された。その安堵状に
 たか田のさう(荘)、如来たうの たうしき(堂職)の事 くう仏御房のいちこのあいたの事ハ しさいあるましく候 五日(後日)のために状、
   応安二年十一月廿七日   祐朝(花押)
とある。在職10年にして寂、先に記した『後世語聞書』に「南無阿弥陀仏 空仏」とあったという。御令弟を偲ばれてのことと拝する。


 第7世 順証上人
 専空上人の御兄弟で、証西という方の子を弟子とせられたと、恵珍は語っている。50歳で、住持職を継がれた。大谷廟堂は顕智上人の晩年から、留守職の問題、専修寺額掲揚のこと、あるいは唯善の事件等々、関東教団には迷惑をかけてきたが、今また問題を起こしたので、どうしたものかと、順証上人が惣門徒へはかっていられる。真宗門徒を代表しておられる、本寺の知識の方々の苦慮がうかがえる。


 第8世 定順上人
 住持職を2歳で継がれたが、道心の深い方であったと代々聞書にある。応永10年(1403)聖人の150年忌法会後、四天王寺、中宮寺に詣でていられる。聖人は四天王寺の『御手印縁起』を得て『皇太子聖徳奉讃』を書かれ、顕智上人は同寺に参って、太子御衣の断片を頂戴された。高田は代々、太子を崇敬せられてきたので、上人も、聖人と太子を偲ばれてのこと、中宮寺では「曼陀羅」の一部を頂かれた。


 第9世 定顕上人
 上人は、28歳にして住持職を継がれたが、御尊父が熱心な法悦者であられたので、自然にその感化を受けられたもののごとく、身を持すること厳にして、毎月聖人の御逮夜27日には、初夜勤行ののち、唯一人、御影堂にお入りになり、戸を閉じて、終夜、称名念仏された。上人はあまり御健康でなかったので、遠くへの行化は差し控えられた。輿、車馬の使用も好まれず、唯「還相の時、車馬に乗じて 来らん事を」と還相回向の果報を待ち望み楽しんでいられたという。御宝蔵には、ごく小さな如来様と「妙慧比丘尼」(御内室)と墨書された御舎利が奉安されていると承っている。これは、中興上人が常に母恩を感謝あそばされ、奉持していられたものという。


 第10世 真慧上人
 法鼎移転の大業を成就せられたのをたたえて中興上人と申し上げる。若きころ賀波山に隠れて研学、また古刹をたずねて諸宗の奥義を学ばれる。
 帰山後、聖人の遺跡をたずねて西国へ、しばらく江州坂本妙林院に滞在、27歳のとき伊勢国に化錫、一時県外に出られ、ついで一身田に入り、有縁の地として、本寺をここに移そうと思い無碍光流邪義釈明のため叡山に上り、求められて経論を講じ、謝礼として「阿弥陀如来像」を贈らる。名号や野袈裟を与え、教化大いに揚る。『顕正流義抄』などを著わし、門末を教導せらる。


 第11世 応真上人
 後柏原天皇の綸旨(りんし)を賜い、住持職になられたが、のち真智上人の入室があって、紆余曲折、真智上人はのち越前に専修寺を建立住された。応真上人は江州、京都方面を教化、三日市兼帯所の焼失に、金2000疋を下附して復興を助けられた。後柏原天皇宸翰を拝受するなど、京都方面の交誼広く、御葬儀には烏帽子の方々の参列、会葬が多かったという。


 第12世 堯慧上人
 応真上人は、生前中譲状を認め寂せられた。よって、上人は天文11年(1542)坂本を御発、黒田にしばらく御滞在、中川原(津市)に移られて、御内室を迎えられた。二女はのち坂本円明房兼隆に嫁せられた。兼隆は妙林院の護持に骨折っている。門跡号を勅許され、皇室との関係も深く、足利家を通じては朝倉や喜雲院様への配慮のあったことも、慶寿院文書は語っている。悦浄院は上人の御書を講じて、聞法愛楽の御消息であると讃嘆している。


 第13世 堯真上人
 天正8年(1580)の綸旨には「堯応僧正御房」とある。同年7月には、越前へ下向していられる。この年、熊坂専修寺は完成している。堂宇の改造が成った天正16年(1588)の千部法要は、堯恵、堯真、両上人お揃いで御昇堂され、天から妙華が降ったと報ぜられたほど盛大であった。長女鶴子様が地震のため、伏見城で寂せられた。「それ人間は老少不定にして」との御書はこのときの御心境と拝する。のち秀吉は350石を本山に寄進している。『西方指南抄』(願誓寺蔵)、『三帖和讃』(寿福院蔵)の書写本が残されている。


 第14世 堯秀上人
 「つらゝ世間の転変を観すれば、哀傷の涙 袖にあまり」と仰せられた上人は、御内室にも早く先発たれ、両堂の焼失、堯朝上人の御逝去、「かなしみ肝に銘ず」とは実感のお言葉と拝する。今日まで門末は、この御書を拝誦して、無常を感じ、大悲の恩徳を喜ばせて頂いているが、65歳の御老境をもって、法嗣の育成、山内の復興、年譜のごとく、言語に絶する御苦労をされた。御影堂再建という、現代ではもうできない文化財をお残しくだされ、「他力の御廻向によりて、往生決定する」幸せを感謝せよと、改悔文に仰せられて、門末を教導せられたことを忘れてはならない。


 第15世 堯朝上人
 堯秀上人は、60歳になられたので住持職を譲られたが、前掲の大火や前住上人の位階任命、手続きの問題があり、幕府の難を避け難く一身を犠牲にせられた。内室は髪をおろして高松院と称され、7回忌には梵鐘を鋳造、鐘楼堂を建立せられた。鐘銘に「高田山 専修寺洪鐘 願主伊賀侍従大学頭 藤堂高次妹 高松院 敬白」とある。
 今もなお韻々として響き、諸行無常を伝え、結縁と報謝の称念を教え鳴っている。


 第16世 堯円上人
 堯朝上人の御逝去によって、翌々年、堯秀上人は花山院から8歳の上人を迎え、とくに教育に留意せられたようである。『興御書抄』(恵雲著)に「寛文第三暦五月廿一日 御子達御披露恵雲」とあるのもその一例と拝察する。
 東都に遊学した普門も帰り『教行信証師資発覆抄』250巻の大著をなし、恵雲は『教行信証抄』を刊行した。東西にも本典講録の刊本なき時代であるだけに、諸学匠はたいへん参考にしたという。安居の制を定められ、学事は大いに盛んとなった。歴代御廟の建設、山門建立、野州高田山本堂再建などされ、宝永7年(1710)職を円上人に譲られた。


 第17世 円上人
 堯円上人には7人のお子様があったが、夭折されたので、勝宮が入室、17歳で住持職を継がれた。前住上人の後遺嘱を実現せんため、26歳のとき、阿弥陀堂の建立を発願せられた。折柄、経済状態も悪く30年を要した(「如来堂をめぐる諸問題」―『高田学報』拙稿)。
 「次第に年老い、今日や 寺務を辞し、明日や 世を逃れんとする折から」法嗣円超上人は寂せられ、翌々年上人も寂せられた。御内室紫雲光院様の御苦労も述べる暇はない。


 第18世 円遵上人
 若年の法嗣は、紫雲光院様の慈愛に満ちた養育によって御成長。『高田沂源論』『高田三祖伝』を著わされ、慚愧の御書を述べられては、門末をさとされ、天明3年(1783)火災の復興、とくに「勧学堂」の造営は、高田教学の興隆となり、真淳、慧弁、旭弁らが活躍し、学事に花が咲いた。紫雲光院宮が70歳で寂せられたので、和歌を供えられ、毎朝仏前に自ら花を供えられて、養育の恩を謝せられた。『御印施法語』、『天明宝訓』を出されては、御正意を説き、『下野日課論』では口称三昧の義を述べられたが、策励に堕せざるよう戒めていられる。


 第19世 円祥上人
 上人は、8歳のころより外典、内典は円遵上人が教授せられた。細合方明に詩を教わる。『遊翰集』はそのころの作。聖人550年忌を前に、円遵上人は職を譲られたが、上人はすでに教学面での指導監督を委ねられていた。中興上人300回忌にあたり、嘆徳文を製し、祖師中興両上人報恩のため「悲嘆述懐讃」を1週間講ぜられた。紅葉堂の因縁譚も貴く、同木の聖徳太子像は、兼帯所太子寺に安置されている。『三部経』の刊行、『薑花集』、『緩御書』(円遵上人)の刊行下付、御尊父公へ『三帖和讃』を贈呈、称名をおすすめになった御書翰が残されている。


 第20世 円禧上人
 『墨化台譜』に「以不肖松 為有栖川王養子賜称学宮更為輪下附法弟子」とあるがごとく、円祥上人のお子様であるが、韶仁親王の養子となって、入室せられた。住持職を継承された天保のころは変動の時代であったが、よく対処され、とくに学事に留意され、安居は、2月から6月、8月から12月まで開筵され、法梁、忍阿が毎年のごとく出講、一光三尊仏開扉、仁孝天皇御拝あり、『文政広諭宝訓略註』を著わされ、宗祖600回忌法会には近侍に助けられて御昇堂、間もなく寂せられた。

円禧上人のご生涯


 第21世 堯熙上人
 11歳で御入室、この年地震があり、報恩講初夜勤行は中止された。宗祖600回忌に際し、  たのもしなかゝるみのりにめくりあひて  はるけき国もとほからぬ身は
 と詠ぜられた。法会が終わって円禧上人が寂せられたので、伝灯を継承された。そのころ宗議上問題が起こったが「慶応宝訓」を出されて決判さる。維新の動揺期よく対処せらる。
 島地黙雷はしばしば上山し、上人より御意見を拝承する。大師号宣下、勅額拝受、明治天皇行幸あり、各地の巡化、聖人650回忌には、天皇より香華料下賜、晩年は和歌、茶道を楽しまれ、「余は法灯を辞せしより既に7年今や高齢76歳に及べしり」云々と遺訓され寂せられた。


 第22世 堯上人
 御入室の翌年、ドイツに留学、しばらく英国にも転学、ストラブルヒ大学を卒業、学位を得られ帰朝される。岩本裕博士は「恩師のアヴアダーナの御研究は未だ光が褪せていない」と賞讃していられる。卒業論文は、当時「松のみどり」に真岡湛海が3回にわたって紹介している。
 御帰山後は、御婚儀、御得度など御繁忙の中、学界に研究発表、論文の掲載、とくに帝国東洋学会会長に推されて就任。勧学院にて梵語の講義、本山の夏期文化講座にも自ら出講せられた。この講座は今日まで続いている。
 京都大学講師として梵文学を御担任せられるなど、仏教学界への御功績は大きかった。


 第23世 堯祺上人
 明治38年11月26日、堯上人の第二子としてご誕生。京都帝国大学文学部へ進まれ、心理学を専攻せられた。その学識を生かして、生涯青少年問題や社会問題に取り組まれた。昭和10年専精学舎(後の三重少年院)を創設されたのはその第一歩で、戦後は三重県共同募金会会長、三重県公安委員会委員長などの要職を歴任された。またロータリークラブ活動の振興に尽瘁され津北ロータリークラブを創立し、昭和43年には東海北陸地域のガバナーにも就任された。全日本仏教会では、国際親善使節団を率いて、欧米諸国を歴訪せられたこともあった。本山境内の高田青少年会館は、上人の主導によって設立されたものである。平成4年5月8日、86歳で遷化せられた。