如来堂ができるまで
このページは如来堂大修理落成慶讃大法会記念小冊子
「如来堂ができるまで(平成3年4月10日発行)」を引用したものです。
文 平松令三
絵 大河戸悟道
発行 高田派婦人連合会
印刷 オリエンタル印刷株式会社
まえがき
高田派本山専修寺(たかだはほんざんせんじゅじ)の如来堂(にょらいどう)は、今から約250年程前の建築です。国の重要文化財の指定も受けている大切な建物ですが、痛みがひどくなりましたので、10年ほどの年月をかけて大修理をしました。生まれ変わったように美しく堅牢に仕上がった御修理の完成を祝って、このたび落慶法会(らっけいほうえ)がつとめられます。
この小冊子は、如来堂がはじめて建てられた時の、昔の人々の御苦労などを伝えるものです。お読み下さると、きっと如来堂がいっそう尊く、又親しみ深くなることと存じます。
合掌
平成3年4月
常磐井 和子
1.落語「時そば」と「一銭講」
如来堂(にょらいどう)を建立(こんりゅう)しようというので、一ばんはじめに作られた全国組織が、「一銭講(いっせんこう)」でした。享保(きょうほ)4年(西暦1719年)のことで、3年間毎日1銭ずつの日掛(ひがけ)をしよう、というのです。
「なんだ、たったの1銭か」と思われるかもしれませんが、現代とは貨幣価値(かへいかち)が全く違うのですから、それが今のいくらぐらいになるのか、調べてみないと、本当のことはわかりません。
ところがそれを、意外にもあの春風亭柳橋(しゅんぷうていりゅうきょう)師匠がお得意だった落語「時そば(ときそば)」が教えてくれるのです。ご承知のようにこの落語は、「昔は二八(にはち)そばと申しまして、1パイが二八の16文(もん)でございました」というマクラで始まります。話を聞いていますと、竹輪(ちくわ)やいろんな五目(ごもく)が入っているそばのようですから、今なら500円ちかくするでしょう。
それが1パイ16文だというのですから、1文は約30円くらいに当る、と見てよいのではないでしょうか。そして当時の通貨である宝永通宝(ほうえいつうほう)1枚は、4文ときめられていたようですから、1銭とは120円ということになり、3年間(1095日)を日掛すると、13万円を越えるわけで、これはなかなかの金額です。
記録によると、この「一銭講」のおかげで、本山へは今のお金にして6億円ほどが集ったようですが、まだそれでも足りなくて、4年後には第2回目の募財(ぼざい)にかかっています。
2.茶所講(ちゃじょこう)の功績
如来堂建立の第2回目の募財は、享保12年(1727年)に行われた「万人講(まんにんこう)」で、この講に加入した者は、法名(ほうみょう)を大きな帳面に書いて如来堂に備えられ、毎月15日に読経(どきょう)してもらえるというので、たいへん評判になり、わずか3ケ月間に1万5千人を越える加入があり、今のお金に換算して、総額5億円もの金高(きんだか)が集りました。
この募財の主力となったのは、本山茶所講の人人で、32名が責任者となって奔走し、大成功をおさめたのでしたが、工事はそれからまだ20年もかかったため、落慶法要に会うことかできたのは、そのうちのわずか7名で、「25人は相果て(あいはて)申候」と書かれています。深い悲しみを感じさせる言葉ではないでしょうか。
3.斧(ちょんな)始めと棟梁(とうりょう)
享保6年(1721年)春、いよいよ起工式が行われました。そして設計施工にあたる棟梁が発表されました。近江八幡(おうみはちまん)の高木日向光連(ひゅうがこうれん)という人でした。高木家は、京都東寺の五重塔を建てた堂大工の家で、光連自身も大阪の東御堂を建てていて、当代随一の名工との評判をとっていました。
彼の下で現場指揮にあたる下棟梁(したとうりょう)には、白塚の長谷川藤左衛門と浜田の村田喜太郎が選ばれた、と記録に書かれています。白塚も浜田も一身田のすぐ近くで、村田喜太郎のことはわかりませんが、長谷川藤左衛門の方は、今も津市白塚町に長合川姓の家が何軒かあって、関係がありそうです。またこの長谷川氏は、鈴鹿市白子(しろこ)町青龍寺(せいりゅうじ)本堂を建てていることもわかっていて、優秀な堂大工だったようです。
4.3億円の用材
如来堂の工事が始まって6年経った(たった)享保12年(1727年)4月、美濃国(みののくに)から一身田へやって来た3人組がありました。名倉村(なくらむら)多介、大地村(だいちむら)元右衛門、下麻生村(しもあそうむら)平左衛門と名乗る材木の仲買業者(なかがいぎょうしゃ)で、如来堂建立の噂を聞きつけて、やって来たのでした。
「私たちは、美濃国郡上(ぐじょう)郡の奥山で、弓掛山(ゆかけやま)という所に、欅(けやき)の大木を立木のままで買い付けて持っています。それをお役に立てたいのですが」と申し出た言葉に、ウソはなさそうでした。
実はそのころ本山では、着工のために必要な若干の用材は、伊勢の河崎の材木問屋から購入してありましたが、柱などに使う大ものは末だ調達されていませんでした。そこで現物(げんぶつ)をたしかめるために、担当の者が現地へ調査に出向きましたが、その者から「弓掛山というのは、桑名から40里(り)も奥へ入ったすごい深山幽谷(しんざんゆうこく)で、立派な大木の槻(つき欅の一種)にまちがいない」との報告が届きました。
早速彼らとの購入契約が結ばれましたが、大木ばかり104本、その代金は金1815両3分。今のお金に換算すると、約3億円ほどになりましょう。
5.用材運搬の根廻(ねまわ)し工作
用材買付(かいつけ)の予約ができると、今度はその用材をどうやって運搬するかです。もちろん、筏(いかだ)を組んで河を流すしかないのですが、それに先立って、筏が通って行く領地の殿様ごとに、そこを通してもらう許可をとらねばなりません。許可をもらった上で、通行税を支払わないと、通してもらえなかったのです。
現代では想像もできないような厄介(やっかい)なことでしたが、それがその当時の社会の仕組(しくみ)でした。
そこで本山では、まず第一に尾張の徳川家へ、できれば通行税を免除して通行を許可してもらいたい、との願書を提出しました。それに対して尾張藩からは、通行税については規定があって免除できないが、その他はできるだけ便宜をはからうから、用材には一身田御用の極印(ごくいん)を打っておいてほしい、と回答して来ています。
これを手始めに、諸大名から許可してもらったのですが、ついうっかりして、1万石未満の殿様、つまり小名については、何の手続もしませんでした。このため大あわてさせられる事件が起りますが、そのお話は次にいたしましょう。
6.用材通行まかりならぬ
如来堂の用材を岐阜県郡上郡弓掛山(ぐじょうぐんゆかけやま)から運び出した時、思いがけぬ事件がもち上ります。それは弓掛山の麓(ふもと)の沓部(くつべ)村を通ろうとしたところ、村人たちが「この材木通すことまかりならぬ」と騒ぎ出し川筋を流し落していた材木を全部岸へ放り上げてしまったのです。
村役人の言い分を聞きますと、そこは遠藤宮内(くない)という小さな殿様の領分で、「この材木の通過について、高田本山からは何の御挨拶もない。聞けば尾張様などの大名へは、キチンとお頼みになったとか。こちらを小身者(しょうしんもの)と見くびってのことか」、ときつい叱責(しっせき)です。
アワを喰って、一身田へ早駕篭(はやかご)を飛ばせ、調べてみると、その通り、本山の方でついうっかりしていたのでした。
そこで今度は、使者が早馬(はやうま)で江戸へ走ります。お殿様は江戸に住んでいたからです。江戸称念寺(しょうねんじ)の住職が殿様のお屋敷へおそるおそる参上して、平身低頭(へいしんていとう)。やっとのことで許可をもらって、その許可書を、現地の沓部村へ持って走り、ようやく材木を川へ下してもらいました。今では思いも及ばぬ事件でした。
7.難所"餓鬼ヶ咽(がきがのど)"を通る
飛騨川(ひだがわ)まで下りた御用材は、下麻生(しもあそう)から筏(いかだ)に組まれて、川を下ることになりましたが、飛騨川は音に聞えた急流、中でも「餓鬼ヶ咽(がきがのど)」という所は、両岸から岩が迫っていて、狭い上に水がほとばしっているので、筏のままではとても通れません。筏をほどいて、一本ずつ落し流しにするのですが、流した材木が横になって岩につかえるといけないので、鳶職(とびしょく)の人が麻ロープに身体を縛り、岩の上から宙吊り(ちゅうづり)になって、流れてくる材木を処理しなければなりません。
そのあたりは、水深が三丈(さんじょう)(10メートル)もあって、もし水の中へ落ちようものなら、死骸もあがらない、という難所です。
犠牲者(ぎせいしゃ)が出なければよいが、と心配しながら、人夫を増配置して材木を流しますと、お蔭様で犠牲者も出ず、材木の紛失もなく、これはさすが如来堂の御用材だからだ、如来様の御加護(ごかご)だ、と関係者一同喜び合ったのでした。
8.天井裏の梁(はり)にいまも残る筏流し(いかだながし)の痕
如来堂の天井裏は、材木が縦横無尽(じゅうおうむじん)に組まれていて、ジャングルジムみたいですが、材木が太いので、鼻先がつかえるような感じさえします。
それらの材木には、「いろは」の記号や番号などが墨書(ぼくしょ)されていて、大工さんが材を刻んで、ここで組み合せた状況がしのばれます。
そんな中で、直径2尺(60センチ)もあるような太い梁(はり)には、どれも「一身田」と大きな字が刻(ほ)られているのが眼をひきます。
これは、奥美濃(おくみの)で切り出された材木を、筏(いかだ)に組んで飛騨川(ひだがわ)を桑名へ流したとき、万一筏がこわれて離ればなれになっても、一身田へ届くように、と彫ったものです。もちろん特別な彫刻師であった筈(はず)はなく、材木伐採の職人か筏師(いかだし)など、素人(しろうと)の手にかかるものでしょうが、良く切れるノミが使われていて、気どらないあっさりしたきり口が、実に良い味を出しています。
9.棟梁(とうりょう)は名匠高木作右衛門(さくえもん)
起工式は、享保6年(1721年)春、近江八幡の高木作右衛門光連(さくえもんこうれん)を棟梁に、白塚の長谷川藤左衛門と浜田(河芸町)の村田喜太郎の二人を下棟梁(したとうりょう)にして行われた、と「如来堂御建立録(にょらいどうごこんりゅうろく)」に書かれています。
棟梁の作右衛門光連は、戦国時代から名匠(めいしょう)として有名な高木作右衛門家の当主で、祖父の作右衛門光喜(こうき)は、京都東寺の五重塔の棟梁をつとめたので知られていました。だいたい近江八幡には大工町があり、17・8軒の大工が住み、みな高木姓を名乗って、全国寺社建築の中心となっていて、豊臣秀次以下歴代の大名は、年貢(ねんぐ)を免除して、特別の保護を与えていました。作右衛門家は、その中の頭(かしら)になる家柄だったのです。
光連は起工式のとき67歳で、その翌年亡くなりましたので、息子の作右衛門光親(こうしん)がこれを引継ざます。そして如来堂が完成すると、自分の分家を一身田に住まわせました。自分の建築はいつまでも責任をとろう、という訳です。これが一身田の高木家で、つい先年までその住宅が東町にありました。ご子孫はいま津駅前に居住しておられます。
10.ついに見つけた如来堂建立(こんりゅう)の見積書(みつもりしょ)
如来堂の重文指定が問題になった昭和33年ころ、如来堂建立の見積書が一志郡の高田派寺院にある、とのニュースがありました。すぐに飛んで行ったのですが、いくら探しても見つかりませんでした。もうなくなってしまったんだ、とあきらめていましたところ、大修理工事が始まったある日、鈴鹿市正楽寺の住職、隆(たかし)さんから、「うちに如来堂についての古文書かある」とのおしらせをもらいました。すぐに行って見ますと、なんとそれは30年前に探しもとめて見つからなかった見積書ではありませんか。嬉しさに踊り上がりました。この写真がそれです。
元文(げんぶん)4年(1739年)に棟梁の高木但馬(たかぎたじま)が、本山へ提出したもので、棟上げ(むねあげ)までの入り用が6650両と見積られています。
これが今の貨幣価値に換算するといくらになるのか、が問題ですが、この中に大工の人件費を延(のべ)3万4千人で1700両と書かれているのが、それを解く鍵になるでしょう。つまり大工20人で一両というのです。ということは、現在大工さんは1人1万5千円はするでしょうから、1両は30万ということになります。その割で換算すると、6650両というのは、19億9500万円になる訳です。なんとすごい金額ではありませんか。私はもう一度びっくりしたことでした。
11."空葺き(からぶき)"という最新先端技術が使われていた
如来堂の大修理工事が始まって、関係の技術屋さんたちを驚かせたのは、屋根の葺(ふ)き方でした。瓦をめくってみると、瓦の下にある筈の土が全然なかったからです。
普通は垂木(たるき)の上に板を張って、その上に土居葺(どいぶき)と言って杮(こけら)板などの薄板を貼り(はり)つけ、そこへ練り土(ねりつち)を置いて、瓦をなじませ、瓦に釘を打ったりしてズレるのを防ぐようになっているのですが、その練り土が置いてなかったのです。その代りに、独特の木製の棧(さん)を土居葺の上へとりつけ、瓦には裏側へツメを作って、それで棧にひっかけて固定させるようになっていたのです。
こういう土を使わない屋根の葺き方を、「空葺き」と言いますが、土を使わなければ屋根の重量がグンと軽くなって、柱などへの負担(ふたん)が減る(へる)し、土に雨が泌(し)みこんで乾燥(かんそう)せず、木材を腐蝕(ふしょく)させるのも防げるというので、江戸時代の半ばころに発明されました。民家などではちょいちょい使われていたようですが、如来堂のような大建築で使われた例は知られていませんでした。如来堂はそんな画期的(かっきてき)な最新工法を使った建築だったのです。
ただ未だ十分に発達していない段階だったので、やってみると計画通りにうまく事が運ばなかったようで、瓦のツメを1枚ずつ調整したり、随分と苦労したところが見られました。
12.左甚五郎(ひだりじんごろう)の作か 妻飾(つまかざり)の鶴
如来堂の大屋根の東と西の妻には、鶴が羽を広げて飛んでいる彫刻がとりつけられています。この鶴は左甚五郎の作で、夜になると、ここを飛び立って、蓮池に下り立つ、という伝説かあります。
左甚五郎というのは、ご承知のように、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の「眠り猫」など、華麗で技巧的な彫刻を製作したと言われる名工で、「飛騨(ひだ)の甚五郎」という名だったのが、左利き(ひだりきき)だったので「左甚五郎」というようになったのだとか、いろんな伝説にいろどられている人です。
しかし学問的にはどうやら実在の人物ではないらしい、ということになっています。いずれにせよ日光東照宮はこの如来堂より百数十年ほど以前のものなのですから、この如来堂建築時に左甚五郎という人がいた筈はありません。
そこで『如来堂御建立録』を調べてみますと、如来堂の彫刻を担当したのは、京都の九山新之丞(くやましんのじょう)という人だったことがわかりました。九山家というは、『愚子見記(ぐしけんき)』という江戸時代の建築書にも記されている有名な彫刻の家柄です。そんな名工の作品だ、というのを、庶民にもわかりやすく「左甚五郎の作」などと言ったのでしょう。
その鶴は、伊勢湾台風で、首と右羽とを吹きちぎられてかわいそうな姿でしたが、今度の修理で、健康な鶴に復原されました。
13.真実だった勘六(かんろく)の人柱(ひとばしら)
如来堂建立秘話(ひわ)の極め付け(きわめつけ)は、何と言っても人柱のお話でしょう。基礎石搗き(きそいしづき)の最中に、勘六という爺さんが、胴突き(どうつき)棒の下へ飛びこんで、尊い犠牲になったと伝えられていて、いまも如来堂東南隅柱の台石に、「寛保(かんぽ)3年(1743年)亥秊(いのとし)7月12蓂(めい)、本覚道元信土俗名勘六(ほんがくどうげんしんじぞくみょうかんろく)」と彫られています。
しかし私はつい先年までこの話を信じていませんでした。というのは、この話は当時のどの記録にも記されていませんし、『如来堂御建立録』によると、この年にはもう柱立て(はしらたて)が始っているからで、この刻銘(こくめい)は柱の寄進銘ではないか、とも思われたからです。
ところが今回の調査で、如来堂の棟の梁(はり)から、「御石搗仕舞(いしづきしまい)寛保三年亥ノ八月廿八日」との墨書銘(ぼくしょめい)が現われました。台石の銘にある7月12日は、まだ石搗きの最中だったのです。しかもボーリング調査の結果、この柱の部分は、地盤が最も軟弱なこともわかりました。勘六爺さんが人柱になろう、と決意したのもうなずかれます。人柱は事実だったのです。
そしてこの事件を契機(けいき)に、如来堂の工事は急速に進展しました。翌年には上棟式(じょうとうしき)が行われ、5年後には竣工(しゅんこう)しました。勘六の赤誠(せきせい)が人々を動かしたのかもしれません。勘六爺さんを疑った私は、大いに懺悔したことを申し上げて、一連のお話を閉じることにします。