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御影堂ができるまで


このページは御影堂平成大修理落成慶讃大法会記念小冊子
「御影堂ができるまで(平成22年5月発行)」を引用したものです。
文 平松令三
絵 長谷川紀幸
発行 落成慶讃大法会事務局
印刷 光出版印刷株式会社

御影堂一口メモ
○創建  寛文6年(1666年)
○屋根瓦の数  約8万7千枚
○獅子口(一般の鬼瓦)  全部で17ブロック  東側1518kg
  西側1425kg
○創建当時の大工  棟梁江戸坂本三左衛門、尾張長兵衛、
  権棟梁松岡図書、森万右衛門
○今回の修理  工期 平成12年~平成19年  費用 約30億円


まえがき

 高田派本山専修寺の御影堂は、親鸞聖人の木像を安置する350年前に再建された木造建築物ですが、木の痛み等がひどくなりましたのでこのほど8年の歳月をかけて平成大修理を行いました。
 この小冊子は、御影堂が再建された当時の昔の方々のご苦労などを伝えるものです。このような大伽藍を無から築きあげた先人のご苦労に感謝を致すと同時に親鸞聖人のみ教えを賛仰する高田派の根本道場として後世に伝えていくことが大切であります。お読み下さるといっそう御影堂の歴史がおわかりいただけるものと存じます。

合掌
平成二十二年五月
御影堂落成慶讃大法会事務局
局長 岩田 光正

1、高田派教団史上最大の悲劇で始まる

 正保元年(1644年)10月、高田派第十五世堯朝上人が江戸へおでかけになりました。父堯秀(ぎょうしゅう)上人の大僧正昇任について御礼言上のためでした。ところが幕府は、その大僧正拝任の手続きが幕府の事前審査をうけていなかったというので、上人を厳しく叱責しました。その対応に右往左往するうち、一身田では大火が発生し、御堂をはじめ主要建物が炎上してしまいました。正に泣き面に蜂です。
 大僧正問題の方は津藩主のとりなしなどによって一応諒承されましたが、その代わりに親鸞聖人の真蹟を将軍へ献上せよ、との条件が提示されました。この要求を拒否するには死をもってするしかありません。正保3年8月22日、堯朝上人は自決されました。享年わずかに32歳、場所は江戸の唯念寺でした。
 上人の真蹟は、この高田派教団最大の悲劇によって護られました。そして御影堂再建の道もそこから始まりました。

2、堯朝上人の自決に狼狽した江戸幕府

 前回申しましたように、高田派第15世堯朝上人は、高田山の宝物を護るために、江戸幕府の無法な要求を拒否し、自らの命を絶たれました。正保3年(1646年)8月のことでした。
 これを知った幕府は、「まさかこんなことになるとは」と驚き、あわてふためいたようです。喪中にもかかわらず御養子の選考にとりかかっています。というのは、堯朝上人と内室高松院様との間には女の子がありましたが、わずか2歳で亡くなられ、お世継ぎがなかったからです。
 諸史料の示すところによりますと、この世継選考は将軍家光の直命だったようで、幕府の狼狽ぶりがわかります。そして上人の一周忌を迎える前に、左大臣花山院定好卿の第4子金丸君を決定しています。のちに高田派第16世堯円上人となられる方ですが、幕府からは大老酒井忠勝自ら二度も書面を送ってきていて、それが宝庫に保存されています。

3、伽藍の再興は鐘の音から始まった

 悲劇の高田山は、隠居しておられた前法主堯秀上人を中心にして復興に立ち上がりますが、その先頭に立たれたのが故堯朝上人のお裏方高松院様でした。ご実家である津藩主藤堂家と折衝していろいろの支援を取り付けられました。その第一歩が慶安5年(1652年)堯朝上人7回忌での梵鐘制作です。
 銘文にある「願主高松院冶鋳」の肩書が「伊賀侍従藤堂大学頭藤原高次妹」となっているところに、津藩支援の様子がうかがえましょう。高松院様の想いが籠った鐘の音は、今も十方に響き流れています。
 製作者は津の名工辻越後守思種たち、口径124cmの巨鐘です。先年鐘楼の解体修理が行われましたが、その結果、作成当初の基壇は今より少し低かったものの、場所は移動していなかったことが分かりました。

4、専修寺の復興へ津藩主の息女がお輿(こし)入れ

 前回申し述べました大梵鐘の造立から6年のちの万治元年(1658年)、津藩主藤堂高次の息女、つまり高松院様の姪御が、専修寺第16世堯円上人のお裏方として、お輿入れの約束が交わされました。古記録(『窪田御山御再興記』)に、「高松院様の思召にて」と書かれていますから、高松院様の御配慮だったようです。
 高松院様は俗名「おいと」でしたが、この姪御も「おいと」というお名前だったそうで、同名のよしみでのご縁だったのでしょうか。なにしろまだ数え歳6歳の幼い女の子ですから、実際はお輿入れは後のことで、古記録には、「言名附(いいなづけ)」と書かれています。
 しかしこの御婚約を機に、津藩から十町八反という広大な用地が専修寺へ寄進されます。専修寺の復興はここに本格化し始めたのでした。

5、三倍に拡張された専修寺境内

 第16世堯円上人のお裏方として、津藩主藤堂高次の息女いと姫を迎える御婚約が調いますと、津藩から専修寺に隣接する土地十町八反余(1万8千アール)が寄進されることも決定しました。万治元年(1658年)のことです。

 この図のように、専修寺の境内はそれまでの約3倍に拡張されました。今の宗務院の前の道路から西がその土地です。そしてそこへ御影堂が建てられることになるのです。

6、御堂は東向きにするか南向きにするか

 伽藍再建の準備が進んで、いよいよ御堂建築の設計という段階になって、ちょっとしたトラブルが発生しました。それは、御堂を東向きにするか、南向きにするか、という問題でした。
 それまでは専修寺伽藍は南向きだったようです。それは日本へ仏教が伝来して以来の伝統的な古式の伽藍配置によるものでした。法隆寺でも東大寺でもみな南向きです。
 それが中世になって、浄土信仰が高まってくると、阿弥陀様は西方浄土に居られるのだから、御堂も西から東を向けて建てよう、という傾向が強くなってきました。京都の東西本願寺も東向きの伽藍となっていました。
 その新しい傾向を採り入れて東向きにするか、それともこれまでの伝統を引き継いだ南向きにするか、意見は大きく別れたのでした。

 御堂を東向きに建てるべきだとの意見は、お浄土が西になるのだから、といういわば理想主義型なのに対して、南向きがよいというのは、次の3つの理由に基づくものですから、いわば現実直視型です。
 その理由というのは、第1に一身田のあたりは春と夏には東風が多く、東向きだと御堂の中へ風が吹き込んでお灯明の火も消えることがある、というのです。また第2の理由は、津藩からの土地寄進によって、境内が東西に広くなったから、御堂は東西に並べた方が配置がよいというのですし、第3は、京都方面からの参宮道(伊勢別街道)が専修寺のすぐ南側を通るようになったから、それに対応するべきだというのです。
 どれももっともな意見で、安易に解決しそうにありませんでした。

 浄土教の教えを活かして、御堂は東向きにすべきだと主張されたのは、前法主堯秀上人でした。上人は既に老境に入って隠居しておられましたが、なんといっても教団内に強い発言力を持っておられました。
 それに対して、現実的立場から南向きを主張したのは、門信徒の中の有力者たちだったようです。
 ときの法主堯円上人は、ご養子で、入寺されたからまだ日が浅く、どしたらよいか困られたようです。そこでお裏方の父君で、新境内地の寄進者でもあった津藩主近藤高次公に相談を持ちかけられました。そのお手紙が今も残っています。
 高次公は仲裁に入り、堯秀上人とも話し合われた結果、上人側が折れて、南向きと決定されました。寛文元年(1661年)のことでした。これを受けて、工事はにわかにピッチを上げることになったのでした。

7、用材は津部田湊から志登茂川を川曳き

 御影堂の用材がどこで調達されたのかわかっていません。しかし海上を船で運び、津の「部田湊(へたみなと)」へ着けたことだけはわかっています。それは『如来堂御建立録』に、如来堂の用材も御影堂御建立のときと同じく「部田湊へ着けた」と書いてあるからです。
 「部田(へた)」というのは、現在の津駅からすぐ東北あたりの地名で、志登茂川(しともがわ)が伊勢湾へ流れ込むところです。ですから、志登茂川はこのあたりでは、「部田川」と呼ばれています。
 『津市史』(第3巻)を見ますと、部田川は川幅が広く、水深も満潮時には6尺もあって、「江戸橋あたりまで三百石船が入った」と書かれていますから、ここに用材を運び込んだのでしょう。
 江戸橋のところで船から下した用材は、1本ずつ志登茂川の水の上を滑らせて進んだのでしょう。このあたりの水底は深いドロですから、曳くのもさぞかしたいへんだったことでしょう。

8、志登茂川のコブは御用材の貯木場跡か

 高田本山境内の西側を、堀に沿って北へ進みますと、志登茂川を渡ることになりますが、そもあたりの川幅は、コブのように異常に広くなっています。昭和30年(1955年)頃に測量の地図を見ますと、むかしはもっと広くなっていたことがわかります。そしてこの形は川の流れとしてはまことに不自然で、人工的に構築したことを思わせます。
 そこで私は、ここが御影堂や如来堂などの建築用材の貯木場だったのでないか、と考えています。前回申しましたように、志登茂川を川曳きしたきた御用材を、一たんここへ貯木したのではないでしょうか。一度現地へおいでになってみて下さい。