太鼓門修復工事完了

専修寺太鼓門は寛文年中(1661年~1673年)、津藩主藤堂高次の五女いと姫が、専修寺第16世堯円上人の簾中として輿入れするに当たり、御殿、橋向口黒門、庫裏、膳椀百人前、龍舞台と共に建造され、津藩より寄進された[1]
 そのとき、櫓は2層のみであったが、文久元年(1861年)親鸞聖人600回忌の際に、これまでの建物を解体し屋上の櫓を4層に改めた。大工は栗屋町屋町の者であった。一身田町武野喜夫氏蔵の「文久元年大祖聖人六百回忌ニ付、諸殿堂御修履并諸色払」には、次のように記されている。
 太鼓門新調 町屋村大工
  右之太鼓門是迄二重屋根之所、此度改四重屋根ニ相成候事也
  町々へ太鼓音誠能聞候事
 その後の修理履歴は今回の調査によって推定されるものであるが、櫓部分の材料の大部分には現状の洋釘以外に和釘痕跡が1回分あったことや、解体番付が見つかったことから、文久期の建物の櫓部分を洋釘の時代になって解体・復旧していると考えられる[2]。また、初層からは和釘痕が殆ど見つからなかったことから[3]、初層の材料は多くが洋釘の時代に新調されたものであると思われる[4]。初層の材料を取り替えるには櫓を解体しなければ不可能であることからも、一旦全解体した上で、初層の材を大幅に取替え、再建したことが伺える。
 また、初層の瓦の多くに「製造人 伊勢国東日野村 小林庄助」という刻印がある[5]。これは専修寺の北入口(明治25年の棟札あり)の瓦と同じものである。明治25年に「太鼓門他見積書提出」という記録があることからも[6]、このあたりから明治45年の宗祖650回忌に間に合わせる形で再建されたと考えても差支えなかろう。
 この時期には御影堂の修理も行われており[7]、土居葺きの柿や瓦、木材など再建時のものと思われる材料からは他の建物からの転用、もしくは寄せ集めのような印象を受けるものが多い[8]ことからも、御影堂や他の建物の修理用材の余りを用いた、ということもあったのではなかろうか。
 それ以外に、4層の小屋組材や番人部屋の造作材など、さらに時代が降ったものと思われる材料も確認された。また、番人部屋の現入り口は土壁を切欠いて枠を嵌め込んだ造りとなっており、明らかな後世の改造によるものである。4層と改造後の番人部屋庇の土居葺きが共に柿ではなく杉皮であったことからも、4層の屋根修理と番人部屋廻りの改造を、明治に再建された後に行ったと考えられる。
 また、この時期に南倉庫と番人部屋境の土台の腐朽が著しかったためか、この通りの壁貫と小屋梁を下げ、その分小屋束を継いだ痕が見られる。このときに番人部屋の壁漆喰塗りを塗り重ねている。
これらの改造を行った時期についても年号は発見されず、有力な資料などもないが、昭和37年の宗祖700回忌のあたりと推測される。
 さらに時代は降り、平成16年11月から同17年1月にかけて、櫓部分に添柱や筋違いを取り付け、垂下の進んだ軒廻りに支柱を建てる補強工事を施されている[9]。それ以前は車両の通行を許可していた中央道路を閉鎖して、北隣に新たに通行門を設けて、建物の保全を図っている。
 このように、調査の結果年号は発見されなかったが、推定した明治・昭和・平成の再建や修理の変遷は、文久時代に前身建物が建立されて以来、およそ50年おきに行われていることになるため、修理の頻度としては適切ではないかと思われる。
 今回の全解体修理に伴う調査によって、具体的な年代は不明ではあるが、再建時期とその後の修理時期、形式の変遷がおおよそ明らかにになった。
 今回工事着工当初は、現状変更を行わない予定であったが、昭和期に行われたと思われる改造が、建具を切って床板や収納棚に転用したり、土壁を切欠いて開口部にしたりと非常に蕪雑なものであったため、明治再建時に復すのが望ましいと判断し、復旧整備を行うこととする。
 ちなみに、北面に半柱と垂木掛が残存しており、洋釘で垂木を打ちつけた痕跡があった。これは、北倉庫の外側に前室のような差し掛け屋根の部屋があった名残である[10]。本来であればこの部分も復旧すべきであろうが、具体的な寸法や構造形式が不明であり、また、復旧したとしても現状の通用門の開閉に支障をきたすと予想されるので、現状のままとする。

 以下、各復旧個所について詳細に述べる。

1.番人部屋の出入り口を、現状の西側から北側に復す。それに伴い、付随していた収納棚や出格子窓などの後補材を撤去する。
 番人部屋の出入り口は、現状では西側にあったが、北面の差鴨居下の土壁を解体してみると、土台上面に幅約5分の建具のレール2本を付けていたらしき風化差と、1回分の洋釘痕が見られた。差鴨居下面には、溝幅7分・畦幅5分の2本溝が発見された。また、この開口部両脇の柱の内面には近付を打っていたらしい風食差と洋釘痕1回分が見られた[11]。明治再建時はこちらが出入り口であり、おそらく昭和期に塞がれ、新たに西側に壁を切欠き、枠を嵌め込むという改造が行われたと思われる。
 今回これらを復するにあたり、レールについては、北倉庫入り口に現存していたものが、5分角の鉄製で、釘のピッチも類似しているので、これに倣って新規作成する。
 また、建具については、土間の収納棚に切断して転用されていた板戸や、外部に放置されていた板戸が発見された。縦横寸法は開口部に合っていなかったが、見込み寸法は丁度良かった。この2本は約1尺ピッチの横桟、裏側に敷目板打ちなど共通点が多く、片側は戸車付であったので、これに倣って作成する。
 この復旧により、旧入口に付加されていた格子や収納棚、土間部分の天井は撤去する[12]

2.南倉庫の出入り口の庇が、番人部屋の改造後の出入り口まで延長して覆っていたものを、およそ半分の長さに復す。
 南倉庫の庇は、番人部屋の入り口を、北側から南側へ移した際に北側へ延長したと考えられた。桁や垂木掛の継手位置から垂木の割付が、1寸異なることや[13]、北端の半柱とその付近の腰壁板の材料が他より新しく、垂木掛けと半柱の仕口が、当初からの部分は、ホゾが蟻型に加工されている。これらは、北面の半柱と同じであり、それに対して後補と思われる部分は、通常のホゾの型であることからも裏付けられる。今回、番人部屋の入り口位置を復すに伴い、この庇も、後補の部分を撤去し、南倉庫入り口部分のみとする。
 また、差桁下に取り付けられた補強金具は、後補のものなので、撤去する[14]

3.番人部屋の土間と畳の間境に建具を整備する。また、東面窓に障子を整備する。
 現状では、番人部屋の畳の間と土間境にはプリント合板で間仕切りを入れ、フラッシュ戸が取り付けられていたが、これらを解体すると、框上面には建具が入っていた溝が発見された。また、鴨居下面にも、それに対応した付樋端の痕跡が見られた。これらは、洋釘打ち1回分の痕があり、2筋で、溝幅7分、畦幅で5分で、敷・鴨居全長にわたって残存していた。
 この間は柱内々寸法が10尺であるため、4本の引き違いと考えられ、溝幅寸法から推定すると、襖が入っていたにしては広すぎると思われた。ここに使われていたと思われる建具は発見されなかったので、番人部屋出入り口に整備した板戸と同じく、土間に設けられていた収納棚に転用されていた板戸や、外部に放置されていた板戸の仕様に倣って作成する。
 また、東面窓には現状は引き違いのアルミサッシが取り付けられていたが、敷・鴨居ともに溝が彫ってあったため、障子を整備する。障子は、旧入り口に嵌め込んであったものを参考に、組子の割り等を倣って作成する[15]

4.南倉庫には床板が殆ど残っていなかったが、床板を張り、土間との段差には上り框を整備する。
 現状では、南倉庫の床板は、奥のほうの6枚しか残存しておらず、床組がむき出しになっていたが、根太にに釘を打った痕跡があったので、床板を補足し全面に張る。残存していた床板は杉材と思われ、厚みは4分から7分、幅は7寸から8寸でばらつきがあった。寝太に対しては洋釘打ちであった。寸法は大きな方に合わせ、取り付け方も現状に倣う。
 また、土間との段差部分には、上り框を整備する[16]

工事完了直前の太鼓門


[1] 安永7年窪田御山御再興記による。

[2] 文久建立時と思われる番付と、新たに表層を削って書いた番付とが混在した材が発見された。

[3] 中央通りの腰壁板の笠木を打っていた釘のみ、和釘であった。これは、文久建立時の建物から、大ばらししてパネル状のまま転用したものと考えた。

[4] 初層窓の縦格子はきれいに成形された丸鋼であり、技術的に明治時代のものと考えられる。これらが、後で交換することが不可能な納まりで取り付けられている。ちなみに初層の材料のうち、中央通路4隅の欅材の柱や数本の小屋梁は文久建立時の前身建物か、もしくは他の建物からの転用材と思わせる、仕口痕跡が残存している。

[5] 刻印のないものもあるが、形や風化の具合などからみて、同時期のものと思われる。

[6] 「重要文化財専修寺如来堂修理工事報告書」を参照。

[7] 「重要文化財専修寺御影堂修理工事報告書」を参照。飛檐垂木まで解体・修理を行った。

[8] 土居葺きは、通常の柿板を3寸ほど重ねて、割り竹を押え縁として洋釘打ちとしていた。柿板には現状以外に釘跡は無かった。瓦は、釘穴が開いているものが3割程度混じっていたが、釘を打っていたのは軒先の数本だけであった。また、軒丸瓦は、10種類以上が混在していた。

[9] 中央通路の敷石は、添え柱の基礎コンクリート打設のため、一旦撤去されている。

[10] 昭和期と思われる古写真に映っている。浅瓦葺き・片流れ屋根という以外の詳細は読み取ることは出来ない。現状建物には、熨斗瓦を積んでいた壁の部分が荒壁まで見えている。初層の現状の柱や桁には竹小舞を打った釘跡は1回分しかないので、土壁と同じく明治再建時にこの部分は存在したと考えた。現状の北側袖塀の屋根の、これに接する部分が斜めに切られており、「谷」を作っていた痕跡と思われる。また、現状は北倉庫入り口に引き戸と扉が取り付けられている。扉がより新しく、後補のものにも見えるが、具体的な痕跡がないので、現状のままとする。

[11] 壁貫がこの両脇の柱を貫通せず、材の内部で止まっていたことや、荒壁土の色が他と異なり、緑色に近かったことなども根拠として挙げられる。

[12] 土間の上の天井裏の梁や野地は煤けて黒くなっていた。これに対し、畳の間は天井の上の柱側面は黒くなっていないので、当初からのものと判断され、土間側の天井は後補材である。昭和の改造のときに、天井や収納を付加し、番人部屋内壁の漆喰を新たに塗り重ねている。もとの煤けた土壁が、天井や収納を撤去した跡に残存していた。後補の天井は縁に敷居を転用したりと、当初に比べ粗雑なものであった。

[13] 当初からと思われる垂木は、化粧裏板を打つ釘跡が現状以外にもう1回分あった。後補の垂木は現状1分のみしか見当たらなかった。

[14] 当初からの半柱と、後補の半柱の全てに同じ金具が付いていたため、この金具も補強として後で取り付けられたと考えた。

[15] 現状では高さを切り縮められていたが、組子の割りから推定すると、東面窓に丁度ではないものの、似たような大きさになったため。

[16] 框があったであろう取り付き箇所の大引の小口が綺麗に切られていた。入り口周辺の根太・大引の接する箇所である。入り口の開口部は床下まで取られており、土台は木部表しであるため、段差が付くのが自然である。


平成22年8月18日 太鼓門完成式の様子