平成26年 一光三尊佛御開扉の様子
 3月28日から30日 栃木県本寺専修寺 一光三尊佛御開扉法会
 2日 輿行列 ・ 3日 ・ 4日 ・ 5日 ・ 6日 ・ 7日 ・ 8日
 9日 ・ 10日 ・ 11日 ・ 池坊生花展 ・ 安楽庵呈茶
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一光三尊佛御開扉 ご参拝のしおり

 このページは一光三尊佛御開扉期間中に配付しました冊子、ご参拝のしおりの内容を引用したものです。
表紙絵 栗原法子

はじめに

 真宗高田派本山専修寺におきましては、平成二十六年四月三日から十一日までの九日間、栃木県真岡市高田の本寺専修寺より一光三尊仏をお迎えし、十七年に一度のご開扉を行います。三尊さまは、平成二十八年三月までの二年間ご逗留になりますが、中開帳の時期(平成二十七年四月三日~五月二十八日)は、たまたま信州善光寺の七年に一度のお前立ち本尊御開帳(四月五日~五月三十一日)の時期とほとんど日にちが重なるという、希有なご縁に遇うことになります。
 本冊子は、このたびのご開扉に合わせ、ご参拝の皆様に一光三尊仏へのご理解を深めていただき、親しみを持って礼拝していただけるよう作成いたしました。

 

一光三尊仏の由来

 一光三尊仏というのは、一つの光背(こうはい)に中尊として阿弥陀如来像が、その脇侍仏(わきじぶつ)として向かって右に観音菩薩像と左に勢至菩薩像がお立ちなので一光三尊仏と申し上げています。
 では一光三尊仏とはどのような仏さまなのでしょうか。
 その由来は『善光寺縁起』に詳しく説かれていますので尋ねてみましょう。
 インドに月蓋長者(がっかいちょうじゃ)がいました。何不自由なく暮らしていましたが世継ぎに恵まれず、五十歳をすぎてやっと一女が授かりました。生まれつき貪欲(どんよく)な長者ではありましたが、この娘のためには萬金を費やすことも惜しみませんでした。しかし娘は流行病を患って臨終を待つ程となりました。悲嘆に暮れた長者は、お釈迦さまに救いを求めました。お釈迦さまは長者の懇願をきいて「西方に極楽世界があり、本尊を阿弥陀と称し、観音菩薩、大勢至菩薩が脇侍(きょうじ)しています。三尊仏の功徳は一切衆生の苦患を救いますから、一心に彼の三尊仏を念じ、その名号を称えれば、必ず汝の娘と国中の病める者は速やかに快復するであろう」と述べられました。
 長者はこれを聞いて、一心にお念仏を称えていますと、三尊仏が顕現されて大光明が放たれ、国中の病者がことごとく平癒(へいゆ)したのでありました。
長者はこの奇瑞(きずい)におどろいて、霊験あらたかなる三尊仏のお姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願(ほつがん)し、再びお釈迦さまにおすがりしました。
お釈迦さまは目連尊者(もくれんそんじゃ)を竜宮城に遣わされて閻浮檀金(えんふだごん)(白金)を持ち帰らせました。再び三尊仏の顕現を請い、阿弥陀さまとお釈迦さまが互いに大光明を放って鉢に盛られた閻浮檀金を照らすと、不思議なことに閻浮檀金が変じて三尊仏そのままのお姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生(しゅうせい)この新仏に奉仕いたしました。
 この出来事があってから幾星霜を経て、三尊仏は聖明王(せいめいおう)が治める百済国(くだらこく)(朝鮮半島)に移られました。それから百余年たって、聖明王が日本へ、この三尊仏を献上(けんじょう)されたというのです。時に欽明天皇(きんめいてんのう)十三年(西暦552年)でした。この年が、我が国に仏教が伝来した年と言われています。早速、この仏像を礼拝するや否やの評議があり、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)の反目から、一時、この霊仏がご難にあわれました。
 その後、聖徳太子が難波の堀江に捨てられていた三尊仏を礼拝されて、「仏法を弘める時が来ましたから、速やかに都にお帰りください」と祈念されました。推古天皇(すいこてんのう)十年に月蓋長者の化身といわれる本多善光(ほんだよしみつ)という人が、水底からすくいあげ、背に負い、宮中に参じて委細を申しあげたのであります。天皇は「仏のお告げに任せて信濃国(しなのこく)へ移しなさい」といわれ、本多善光は、国に帰り、自宅のひさしの臼の上に安置しました。善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でしたが、阿弥陀さまは白毫(びゃくごう)から光明を放たれて、不思議なことに油の無い灯心に灯を灯されたと言い伝えています。
 この奇瑞が世間に知れ渡って、お参りする人が後をたちませんでした。
 時の皇極天皇(こうぎょくてんのう)も、阿弥陀仏の徳の高さに驚き、善光に命じて、伽藍(がらん)造営の勅許(ちょっきょ)を下されたということです。
 以上が『善光寺縁起』が語る一光三尊仏の由来と善光寺創建の物語です。

高田専修寺と一光三尊仏

 『高田開山親鸞聖人正統伝(しょうとうでん)』(正徳五年正月二十八日五天良空師の作)によると、高田派の一光三尊仏は善光寺のご本尊である一光三尊仏の分身を聖人が拝受されたものと伝えられています。これから、『正統伝』に伝えられる「高田」のいわれ、そして聖人と一光三尊仏の因縁(いんねん)を尋ねてみるとともに、その史実についても考えてみたいと思います。

1.「高田」のいわれ
 親鸞聖人五十三歳の時(一二二五年)でした。正月八日という真冬の出来事です。下野(しもつけ)国(栃木県) 芳賀郡(はがぐん)大内の庄(しょう)柳島(現在の本寺の地)で日が暮れてしまい、路傍(ろぼう)の平石の上で野宿されました。寒さに震えながらの仮眠でした。その明け方に妙な夢をみられたというのです。
 一人の天童があらわれて、「われは明星(みょうじょう)天子(彼岸に住む童子)です。極楽にいる虚空蔵(こくぞう)菩薩です。聖人に伽藍建立(がらんこんりゅう)の適地を伝えるために来ました。日本にその聖地が三か所あります。その一つは、京都の六角精舎(しょうじゃ)の建っているところです。二つ目は、摂州(せっしゅう)の摩尼宝(まにほう)の峰です。第三は此処(ここ)です。
 此処は昔お釈迦さまが説法されるために足を留められたところで、如意輪観世音(にょいりんかんぜおん)が如来から仏勅(ぶっちょく)を受けて人々を導いてくださったところです。
 この清浄の地に伽藍(がらん)を建てなさい。持参した柳の苗はインド白鷺(はくろ)池のもの、菩提樹の種子は仏生国(ぶっしょうこく)のものです。この二種を境内(けいだい)に植えなさい」と夢の中で催促(さいそく)されたのでした。
 聖人は、「こんな低い泥地では、どうして伽藍が建ちましょう」と夢の中でいぶかりながら、その泥土に二樹を植えました。
 そして、早暁(そうぎょう)目を覚ましてあたりを凝視(ぎょうし)すると、不思議にも今までの沼田は隆起して高田となり、柳は茂り、菩提樹は大木になっていたのでありました。そこで、のちにこの地を「高田」というようになりました。

2. 伽藍(がらん)の建立(こんりゅう)と一光三尊仏のおむかえ
 その頃大内国時(くにとき)が下野(しもつけ)の国司で、真岡(もおか)の城主でした。聖人は、夢告(むこく)があってから、三谷(みや)村にある国時の草庵で起居されていましたが、一夜のうちに水田が高田となった奇瑞(きずい)に、遠近の道俗(どうぞく)は感嘆の声をあげ、驚異の眼をみはりました。そして浄財の寄進から伽藍の建立へとまたたく間に衆議一決して、工事に取りかかったのでありました。
 聖人も土地が高田に変容しただけでなく、住民が挙(こぞ)って、聖人のみられた夢を正夢と信じて、寺院建立(こんりゅう)に立ちあがったことに驚かれていました。
 そんな時の四月十四日でした。また夢に聖僧(せいそう)があらわれて「師の願望すでに満足しました。速やかに信濃国(しなののくに)善光寺にゆきなさい。わが身を分かちて師に与えます。そして建った伽藍にこの分身を安置し、世の人々にお念仏の道を説きなさい」といわれました。
 聖人は、夢を信じて早速翌朝、性信坊(しょうしんぼう)と順信坊(じゅんしんぼう)という二人の弟子をお供にして出発し、同月十九日に善光寺に到着しました。
 善光寺では、朝のおつとめの時間でしたが、集まってきた寺僧らが昨夜みた夢を話し合っていました。みんなが同じ夢をみたのでした。「明朝、善信(ぜんしん)(親鸞聖人のこと)という僧が来山するので、この一光三尊仏を献ぜよ」というのです。そうしてこの話し合いがまだ終わらないうちに聖人一行が到着されたのでした。
 みんなこの夢の一致におどろきました。早速聖人はこの霊仏を拝受して法衣(ほうえ)につつみ、笈(おい)におさめ、弟子とともに帰途につきました。この話を聞いた人々は道すがら随喜結縁(ずいきけつえん)する者が多かったといいます。
 そして同月二十六日に三谷村の草庵に帰りました。
 この不思議なことが重なって、国司、地頭の帰依(きえ)いよいよ深く、寺院の建立に住民挙げて協力したので、伽藍は嘉禄(かろく)二年(一二二六)四月に落成、一光三尊仏を本尊として安置されたのでありました。
 このことが天皇のお耳に入り、後堀河天皇から「専修阿弥陀寺(せんじゅあみだじ)」の寺号を賜りました。
 以上が、『高田開山親鸞聖人正統伝』に伝えられる「高田」のいわれと「一光三尊仏」の由来の物語です。

3.史実を考える
 これらの物語の全体を史実と考えることはできませんが、高田に、後に専修寺となる堂が建立され、この堂に一光三尊仏が安置されて親鸞聖人が礼拝されたことは間違いのない事実と考えられます。
 当寺、鎌倉幕府を建立した源頼朝の命により、善光寺の再建工事が開始されました。そしてその資金集めのために、一光三尊仏を厨子に入れて背中に背負った勧進聖が各地に派遣されました。三尊仏は各地で熱狂的な礼拝を受け、念仏開催の中心に据えられて喜捨が集められましたが、やがて如来堂に安置されて、この堂は後に善光寺、ないし新善光寺と称される寺院になりました。
高田にも堂が建立されますが、この堂を建立し、善光寺式阿弥陀三尊像である一光三尊仏を本尊として安置した人物は、室町時代の専修寺史料が一様に「高田開山真仏上人」と記すように、高田派第二世の真仏上人であると考えられます。そして真仏上人はやがて親鸞聖人に師事することによって、この堂は真宗寺院となり、高田専修寺になったと考えられます。
 これらのことから言えることは、親鸞聖人は、善光寺の一光三尊仏信仰の普及によって地ならしされた浄土信仰の土壌の上に、本願他力の念仏の教えを広めていかれたのではないかということです。
 そして、親鸞聖人、真仏上人たちの布教によって、真宗教団は高田門徒・横曽根門徒などを中心に下野・常陸に展開し、発展をとげたのであろうと考えられるのです。

ご開扉の歴史
 わが高田派本寺の一光三尊仏ご開扉の歴史を調べてみると、第十七世円猷(えんゆう)上人が、享保(きょうほ)三年(一七一八年)と同十三年(一七二八年)の二度本寺に参られて、同行と喜びをともにせられたという記録があり、翌十四年(一七二九年)に初めて伊勢一身田の本山へ出開帳(でがいちょう)がなされたとなっています。
 以後、十七年目毎に本山へ出開帳されることになりました。

 十七年目という年数が何に依(よ)って決められたのか、何の言い伝えもないが、聖徳太子と一光三尊仏との因縁や、聖人が「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」とほめたたえられる太子の制定した『憲法十七条』の十七という数からとられたものではなかろうかと思う。
『一光三尊仏新縁起』生桑完明 著

 第二回目の延享(えんきょう)二年(一七四五年)の出開扉のとき、桜町天皇が宮中に霊仏を迎えられて礼拝されました。天皇は、一光三尊仏のお姿に魅せられて等身大の模像をつくられ、長く崇敬されていましたが、亡くなられた後、この像は京都の高田山(現在の京都別院)へご寄嘱(きしょく)になりました。以後、天拝の一光三尊仏とも申し上げるようになりました。
 明治以後のご開扉歴をみますと明治六年、十九年、三十五年、大正七年、昭和九年、二十五年、四十一年、五十七年、平成十年そして平成二十六年と続き、今回は十九回目のご開扉となっています。