宝物のご紹介

重要文化財

絹本著色阿弥陀三尊像(重要文化財)

員数 1幅
年代 鎌倉時代
縦 89.5~、横40~。掛幅装。孔雀の受座のある六角の台座にのる蓮花上に、中印上生の印を結ぶ阿弥陀如来坐像を中央に大きく描く。左肩より袈裟をかけ裳 をつける。背部に身光頭光を描き光明後光を配する。頭上高く中央に花形天蓋を垂らす。前下方両面側には観音、勢至二菩薩が蓮花を持って向かいあって蓮花上 に立ち、その間に供養花が置かれている。両菩薩は胸綴を着け、袈裟をかけ裳を着ける。三尊像は絢欄たる装身具で飾られ、複雑な装飾や彩色に、中国宗元図の 影響が濃く見られる。阿弥陀如来は衲衣の全面を七宝繋ぎ文の精緻な截金で表現し、菩薩も裳を麻の葉繁文で精緻に截金で表現するなど荘厳さを一層ひきたてている。

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紙本淡彩歌仙像(重要文化財)

員数 3幅
年代 鎌倉時代
縦 14.5cm、横20.0cm
和歌の達人三十六人を「歌仙」と言って崇拝する風習は平安中期に始まるが、鎌倉時代に入ると、各歌仙の代表的な秀歌に肖像画を描き加えた絵巻物がしきりに 作られるようになった。これが歌仙絵で、専修寺に蔵されているのは、世に「後鳥羽院本」と呼ばれる一連の作品のうちの三幅である。
この名は、江戸時代の古筆鑑定家が書も絵も後鳥羽天皇の宸筆と判定したことによっている。たしかに書のほうはよく整った力強い見事な筆跡で、後鳥羽天皇の 筆癖に似たところがないわけではない。しかしやはりその伝承に頼るべきではない。絵は白描画に近い淡いあっさりした彩色で、極めて洒脱輕妙に人物を描いて いる。その味が後鳥羽院宸筆との伝承を生む源であったのかもしれない。三十六歌仙のうち十五歌仙が現存しており、専修寺のはそのうちの三点であるが、三点 とも女性であることからとくにもてはやされ、名品との評判が高い。
伝来は審らかではないが、「寛永の三筆」と謳われた江戸初期の名筆近衛信尹が和歌を書いた歌仙絵と組み合わされていたらしいから、近衛家に親しい家から専修寺へお輿入れになったお姫様の御調度品だったのだろうか。

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木造阿弥陀如来立像(重要文化財)

員数 一躯
年代 鎌倉時代
真宗高田派の本山専修寺如来堂の本尊。衣全体に繊細な切金(きりがね)文様が施された美作で、快慶の作風を濃厚に伝える。足裏に仏足文(ぶっそくもん)を 表し、手足の指の爪や蓮華座の蕊(しべ)に金属を用い、本体を銅柱で台座に固定するなど特色ある造法を示す。類似する阿弥陀像は13世紀から14世紀にか けてしばしば造立されたが、本像はその典型作として位置付けられる。光背、台座には一部後補が認められるが、保存状態は極めて良好である。

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専修寺聖教(重要文化財)

員数 八十二点
年代 平安時代~室町時代
親鸞の直弟子で真宗高田派を率いた真仏(1209~1258)および顕智(1226~1310)の撰述書と鎌倉時代の古写本とが中心となる聖教のまとまり で、専修寺の伝来になる。真宗の祖師である親鸞の思想や門弟らによる教説の受容のあり方などを明らかにする上での基本文献である。

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紙本墨書観無量寿経 附 尊盛添文(重要文化財)

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紙本墨書水鏡 上中下(重要文化財)

員数 3冊
縦31.3cm 横25.3cm
『水鏡』は『大鏡』に始まるいわゆる「鏡もの」の叙述形式によって作られた歴史物語である。ある老尼が大和の長谷寺に参籠したところ、そこで修行僧に出会 う。その修行僧は葛城で修業した際に、神代の昔からその山に住んでいるという仙人から、日本の歴史をいろいろと語って聞かされたということなので、老尼は それを聞き出して書きつける。という設定になっていて、神武天皇から始めて、歴代天皇の世代ごとの歴史を、物語調で記している。最期を第五十五代(現代の 数え方では第五十四代)仁明天皇で書き留めているのは『大鏡』が第五十六代文徳天皇から始まっているからである。著作されたのは鎌倉初期と考えられるが、 著者については定説がない。
専修寺に蔵されているのは鎌倉中期を下らぬ古写本で、現存古写本中の最古とされる。しかもまことに美本であって、両々相俟って古写本中最も貴重との評価が高い。
料紙は厚手の鳥の子紙を用い、それを約五枚ずつ重ね、その中央を縦に折って、折り目に絹糸を通して綴じつけ、そのようなものを五つないし六つ集めて一冊と した、いわゆる胡蝶綴(大和綴ともいう)の書冊である。表紙は銀泥で霞を引き草花を描いた上に、金銀小切箔を散らし、中央上部に「水鏡上」というふうに外 題を墨書きしている。本文は一頁十行に平仮名混り文で墨書され、朱筆をもって句切点を記すほかまま漢字に四声点を施している。その筆跡はまことに流麗で、 当代一流の書家の手にかかるものと思われるが、三冊それぞれ筆跡を異にする。付属している江戸時代古筆家の鑑定書によると、上巻が九条道家公、中巻が大乗 院慈信、下巻が一条実経公、各巻外題が伏見天皇、となっているが、どこまで信じ得るか甚だ疑問である。筆跡総合判定の結果は前記の通り鎌倉中期とされるか ら、これらの人々よりもう一世代ぐらいは古いころの人々の書写と考えるべきであろう。
この伝来については審らかでないが、貴族的風潮によって作られた文化財なので、専修寺本来のものでないことは当然で、江戸時代に京都の貴族社会との交流が緊密となるに及んで、もたらされたものであろう。

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紙本墨書後陽成天皇宸翰御消息(重要文化財)

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親鸞聖人消息(重要文化財)

親鸞聖人の送られた手紙です。

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唯信鈔 聖覚作親鸞筆(重要文化財)

員数 1冊
縦26.1cm 横19.0cm
『唯信鈔』は、親鸞聖人と同じく法然上人を師と仰いだ天台僧聖覚法印の著書で、『選擇集』のダイジェスト版とも評される。聖人はこの『唯信鈔』を高く評価 し、門弟への消息の中で、この書の味読をしばしば推奨しておられる。また自身で筆を執って書写したものを門弟に与えてもおられ、少なくともその数は五回以 上になることが知られている。たいへんな力の入れ方であった。
この書が著述されたのは、奥書に「草本云、承久三歳仲秋中旬第四日 安居院法印聖覚作」とあるように、承久三年(一二二一)八月であったが、親鸞聖人には四十九歳にあたる。したがって関東教化の最中であり、これを知るすべはなかった。
これが聖人の眼にふれたのはそれから九年後で、この書の奥書にあるように、寛喜二年(一二三0)五月であったらしい。聖人は五十八歳で、まだ関東での布教 中である。都から遠く離れた草深い片田舎に、どういう手だてがあったのか、聖覚の自筆草稿本に接することのできた聖人は、早速これを書写した。そのときの 喜びがこの奥書に込められているように思われる。
というのは、この書はこの奥書の様子を見ると、聖人五十八歳の書写本であるかのようであるが一字一字が大ぶりで、しかも枯淡そのものの筆致を示しており、 一見しただけでもそんな壮年期の筆跡とは思われない。はるかに老境に入ってからのものである。そこで『唯信鈔文意』と対照してみると、筆跡や体裁、紙質が 全く一致し、しかも表紙の袖書も同一であることから、これと一具であることが確認される。すなわち聖人八十五歳の康元二年(一二五七)の書写ということに なるのであるが、それにかかわらず、寛喜二年の奥書を書き残しておられるのは、そのときの感激が思い起こされたからではあるまいか。また本文の文字にも、 老筆でありながら、躍動するような活力がうかがえる。聖人真蹟の中でも名品の一つであろう。
この書はそのように書写されたのち、本文と同質紙を一枚つけて表紙とし、これに「釈信証」との袖書を書いて与えられたが、のちに覚然へ与え直すこととなり、右袖書を書かれた。しかしこれに渋引紙を表紙としてつけられたので、それにも外題と袖書とを書きつけておられる。

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唯信鈔文意 親鸞筆(重要文化財)

員数 1冊
縦26.1cm 横19.0cm
聖覚法印の『唯信鈔』について、その題名の意味やそこに引用されている漢文の偈などを、わかりやすくかみくだいて記された親鸞聖人の著筆である。その趣旨 は未尾の識語に述べられているように、文字の意味を知らず、愚痴極まりない田舎の人々のために作られたのであるが、いつ著されたのかは明らかでない。現存 する古写本の奥書を総合してみると、盛岡本誓寺本に建長二年(一二五0)、すなわち聖人七十八歳の奥書があるので、少なくともそこまで遡らせることはでき る。しかし前頁で述べたように、聖人と『唯信鈔』との出会いなどから考えて、さらに遡らせるべきではないか、とするのが大方の意見のようである。
聖人はこの書もしばしば書写して門弟に与えておられるが、そのうち自筆本の現存するのは康元二年(一二五七)正月に書写された二本で、ともに専修寺に蔵さ れている。上の写真はそのうち正月二十七日に書写された本で、筆致や書写の体裁、料紙の紙質など、『唯信鈔』と全く同一である。
ことに綴りこんで保存されている二つの原表紙も右の『唯信鈔』と同様で、第一原表紙は白紙で、中央に『唯信鈔文意』の外題と左下部に「釈信証」の袖書が本 文と同筆、つまり聖人自筆で記されている(ここには「釈覚然」の右袖書はない)。そしてその上に第二表紙として渋引紙をつけ、その中央にも外題と左下部へ 「釈覚然」の袖書が墨書きされている。
これから考えられるのは、この『唯信鈔文意』と先の『唯信鈔』とは、聖人によって書写されると、まず信証に与えられたということである。そして、それが何 らかの理由で聖人の手にもどり、ついでに覚然に与えられたらしい。信証という人物は、結城称名寺の古系図に、真仏上人の子で、常陸の武将結城朝光の聟と なった、と記されており、結城称名寺が開基と仰いでいる。また覚然は国宝本正像末法和讃の表紙袖書に記されている人物であるし、高田入道あて聖人自筆消息 に「かくねんはう」と現れる人物、と考えられている。
八十五歳という高齢にかかわらず、筆の運びがよく暢達しており、枯淡の中に気力充実していて、実に見事な筆跡になっている。聖人真蹟の中でも名品と言われる。

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見聞集 親鸞筆 大般涅槃経要文 親鸞筆(重要文化財)

員数 一冊
縦25.0cm 横15.8cm
『大般涅槃経』の中から三十五文を抜粋し、そのあとへ『業報差別経』の一文を続けて書写されたもので、著名などはないが、筆跡からみて親鸞聖人の筆として 誤りないものである。聖人が『涅槃経』をとくに重視されたことは、『教行証』に非常に多くの引文があることによって著名であるが、その面からこの書の存在 が注目される。
なおこの聖人の筆写に続いて、『金光明経』などから三つの要分が墨書されているが、これは聖人の筆跡とは認められていない。

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顕浄土真実教行証文類【高田本】(重要文化財)

員数 6冊
縦28.0cn 横21.5cm
『顕浄土真実教行証文類』、略称『教行証』は、俗に『教行信証』と言われ、親鸞聖人の思想が体系的に記述された聖人の主著であって、真宗の根本聖典とされ る。それだけに他の著述と違って、特別な性格を与えられてきた。それは和讃などが一般民衆にわかりやすく書かれているのに対して、これは全文漢文体の難解 な書であって、これを伝持することは聖人からの付法相承のあかしとの意味を与えられてきたのである。そのことは中興真慧上人が『顕正流義鈔』の中で述べら れておられるところで、高田派教団ではとくに大切に伝持してきた。
その意識から派生したのか、この本は聖人自筆の清書本との伝承があった。しかし昭和初年ごろからその筆跡について疑問が次第に強くなったことを受けて、昭 和三十一年の新宗連合学会大会において、生桑完明講師が、これは建長七年(一二五五)に聖人自筆草稿本から専信房が書写させていただいた本である、と発表 した。それはこの本の化身土巻の末尾一紙が、折り目からあとを切り取られているが、もとここにそれを示す奥書のあったことが史料から確認されたからであ る。しかしその後の研究から、この本は専信房書写本からさらに転写されたものであることがわかり、筆者は専信房の師真仏上人であったことがわかった。料紙 も楮交斐紙と言われる上質の紙で、草稿本では雑然としていた個所もきちんと整理して書かれている。専信房が京都の聖人の許で書写させていただき、それを関 東へ持ち帰って真仏上人にお見せしたところ、上人はそれを整理しつつ丁寧に書き写し、渋引紙を使って表紙をつけ、高田派教団そなえつけの聖典とされたもの のようである。聖人在世中に『教行証』を書写させていただき付法相承を受けたものは、聖人の従兄尊蓮と専信房と真仏上人の三人だけで、しかもその書写本は わずかに専修寺のこの本が伝わっているにすぎない。その点でも極めて貴重である。
なお第一冊、第三冊、第五冊の末尾には、親鸞聖人の入滅に関する墨書がある。本文と全く異なる筆跡で、高田派第四世専空上人の書き入れと考えられるが、それによって高田派教団から顕智上人と専信房とが葬送に参加し、拾骨を行ったことが知られる。

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尊号真像銘文 親鸞筆(重要文化財)

員数 2冊
縦26.0cm 横18.3cm
この書の題名は、礼拝の対象とする名号や、拝敬する高僧先徳の肖像に書き加える賛銘という意味である。親鸞聖人は名号の天地に別紙を貼付したり、色紙型を 設けたりして、経典や論釈の中からその名号にちなむ文言を選んで、そこに書きつけておられるし、肖像の場合も、師法然上人に肖像に「若我成仏」云々の『往 生礼讃』の文が書きつけられていたことは、『教行証』の後序に記されている。これが「銘文」であるが、すべて漢文であって、理解に困難なところがあるた め、それを集めて、解説を加えられたのである。
この書がいつ著作されたか、は明らかではない。聖人八十三歳、建長七年(一二五五)の奥書を持つ聖人自筆本が福井県大味法雲寺に所蔵されていて、それを見 ると未整理なところが多いので、その少し前ぐらいにできたのであろうか。それに比べるとこの正嘉二年本は、分量も少し増えているし、内容もよく整理されて いて、完稿本と言えるようである。筆跡もきちんと慎重にかまえて筆を運ばれた気分が見えて、完稿正本としようとの意図がうかがわれる。なお渋引紙を使った 原表紙に、顕智上人の自筆にかかる「釈顕智」の押紙が貼りつけられていて、その伝来を知ることができる。

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専修寺文書【三百六通】(重要文化財)

員数 十一巻、一幅A七帖、二百八十四通
年代 鎌倉時代~江戸時代
下野国高田を発祥地とする真宗高田派の本山である専修寺に伝来した寺院文書のまとまり。親鸞の廟堂に関する鎌倉時代の文書や室町幕府、朝廷、延暦寺との往復文書など、教団の確立過程を示す文書が多い。また、親鸞の俗姓系図である日野系図の最古写本も伝えられている。

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