御影堂建立のあゆみ 元専修寺宝物館 主幹 平松令三
〔真慧(しんね)上人の一身田御堂建立〕
高田派第10代の法灯を継がれた真慧上人(1434~1512)は、住職に就任すると間もなく関東を出て、北陸を経由して近畿地方へ向かわれました。これは親鸞聖人によって構築された関東教団が、鎌倉幕府の倒壊という社会変動もあって求心力を失い、それと対照的に京都の本願寺が、蓮如上人の活躍によって、強大な勢力を築いてきたことに対応するものだった、と思われます。
上人は、近江国坂本に妙林寺という1寺を構え、日本仏教界の中枢比叡山との接触をはかり、更に朝廷へもアプローチされました。それが成功して、文明9年(1477年)に後土御門天皇から専修寺の正当性を承認するとの綸旨(りんじ)を得ることができ、更にその翌年には専修寺は皇室の御祈願所にも指定されました。
これはそれまで為政者側から異端邪宗との偏見をもって見られることの多かった専修念仏者にとって、たいへん画期的な出来事でした。
為政者側のこうした姿勢変化は、同じ真宗教団の中でも、本願寺はその傘下の門徒が為政者に反抗して、一向一揆を起こす傾向が強くなっていたので、本願寺の対抗勢力である高田門徒を優遇しようとした結果だったのかもしれません。
真慧上人はそうした追い風を受けて、東海北陸方面の教化に努められました。ことに伊勢国内では「直参(じきさん)集」と称する多くの門徒が生まれました。そしてそれを統轄する寺院として、一身田に「無量寿寺」を建立されました。明応元年(1492年)前後のことです。一身田の地が選ばれたのは、ここが交通の要衝で、室町幕府の直轄御料所となっていたことと、このあたりを支配していた長野氏が将軍の近衛隊に属していて、真慧上人に好意的だったこと、などが原因していたと思われます。
〔襲い来る災難に立ち向かう教団〕
上人示寂後、教団には不運な事態が続発します。まず上人の跡目をめぐって、実子応真(おうじん)上人と養子真智(しんち)上人との反目が原因となって、教団を二分した抗争が起こります。そしてその間に関東高田の本寺が兵火に遭って炎上してしまいます。応真上人は坂本の妙林寺に入られますが、その後継者として飛鳥井家から養子に入られた堯恵(ぎょうえ)上人は、室町幕府の援護を受けて一身田無量寿寺に入られますと、真智上人側との抗争も次第に鎮静化して、一身田が実質的に教団の本山のしての地歩を確立するようになりました。
この当時の伽藍がどのような規模だったかはわかっていません。ただ現在関東高田の御影堂に本尊として安置されている親鸞聖人坐像は、その彫刻技法から真慧上人御在世ころの制作と判定されている像ですが、この像については一身田から下野へ移座されたことが史料によって確認されますので、一身田無量寿寺創建当時の像と推定されます。ところでこの像は「等身の御影」と呼ばれているように、座高84センチの等身大の大きさです。ということは、この像を安置する御堂は相当の大きさだったにちがいありません。真慧上人創建伽藍の規模を考えさせてくれるのではないでしょうか。
その伽藍は天正8年(1580年)火災によって炎上します。織田信長の伊勢進行によって長島の一向一揆が掃討され、高田派教団には追い風が吹いていたころでした。翌々年から再建によりかかり、6年を要して完成した伽藍は、御影堂18間、阿弥陀堂16間だった、と伝えられています。
〔堯朝(ぎょうちょう)上人の殉難に応える大伽藍〕
江戸時代に入ると、またも大きな災難がふりかかります。それは堯秀(ぎょうしゅう)上人の大僧正叙任の際、幕府の定めた手続きを踏まなかったために、幕府への反抗的態度と誤解されたことによるもので、幕府は忠誠の証(あかし)として高田に伝わる親鸞聖人真蹟を献納せよと求めてきました。しかもその騒動の真っ最中、一身田専修寺の伽藍が大火によって炎上しました。教団史上最大の危機でしたが、このとき堯朝上人は、断固として幕府の申出を拒否すると共に、自らの命を絶たれたのでした。
この強烈な事実は、幕府と津藩とを揺り動かし、幕府は好意的な姿勢に転じて、伝灯の後継者を京都鷹司家から迎えることをはからい、津藩は、専修寺に隣接する土地31,463坪(約14ヘクタール)を寄進して来ました。これは堯朝上人の内室高松院(こうしょういん)が、津藩主の実妹であったためでもありました。境内地はこれによってそれまでの3倍近くに拡張されました。
教団はこれを受けて伽藍復興へ奮起し、まず御影堂再建に着手します。企画段階では御影堂を南面させるか、東面させるかの議論が沸騰したこともありましたが、最後は南面と決定し、全国文化財指定建造物中第5位の巨大御影堂が建立されることになったのでした。