別院のご紹介

名古屋別院

名古屋別院


愛知県名古屋市西区那古野1丁目20-5
TEL:052-551-2976
FAX:052-526-9633
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寺史・沿革

替地町西側に在り。境内516坪75、徳川時代年貢1反77、三重県一身田町専修寺別院なり。元臨光山信行院と号し、皆戸町に在り。正保4年専称院義起玄怒(元禄5年5月寂)紀元2309年の創建なり、明暦3年今の地に移す」とあります。

神社誌、府誌に「元正万寺町、東本願寺順正寺と号した。明暦3年に此の地に移り、臨光山信行院と号した。享保9年火災に依り、無住となる。」其後松溪巍堂復興に尽くし、宝暦6年12月寂しましたが、華厳三昧堂を再興し専修寺掛所と為し、第7世歓喜心院宮円猷上人の許可を得て、高田本坊と称しました。

其後超検院宜弁は本堂を再建し、文化11年7月寂しました。

万延の頃、「専忠義宜は在職17年の長きに亘り本坊興隆に尽くし、明治初年に書院、庫裡を建立し、下野高田山の一光三尊仏の出開帳を行い未曾有の参詣であった」と記されています。

本尊は恵心僧都作と伝えられています。

阿弥陀如来立像で、嘗ての本堂、庫裡、鐘楼堂は、明治43年9月落慶、鼓楼、水屋、会所、布教所は、明治44年、落成し、諸施設完備し、布教も亦盛に行われて、参詣者常に堂にあふれ、遠近を問わず「御本坊」と一般に尊称され親しまれていました。

末寺は、信行院時代に、尾三、濃三国に亘って43ヶ寺がありましたが、尾州領となってから30ヶ寺を加えられ、73ヶ寺となりました。

此しくて明治の末年より大正昭和へと、愛知県下に於ける、高田派の拠点となり又正法弘通の一大中心点ともなりました。

時は下り、第2次世界大戦に際して、この地は空襲の災禍にあい、当別院も、昭和20年1月3日本堂焼失、3月、到って僅かに山門鐘楼堂、土藏、水屋を残して他の建物はすべて烏有に帰してしまいました。

これから苦難の時代が続き別院の復興も容易ではありませんでした。
境内の焼跡に、羅災者の急造バラックが建ち並び、その数は53戸にも及びました。

終戦と共に、復興の計画が企てられましたが、名古屋市部の大半が、焼土と化した事情もあって、計画は遅々として進まず、難行を重ねた時代でした。

昭和26年に到って、復興事業遂行の為に、特に山田音一、坂久吉、佐野亮三らを実行委員に本山より委嘱し、三井稔淳輪番と共に強力な折衝を進め、居住者の協力を得て、遂にバッラク群の立ち退きを実現して、本堂、庫裡、の再建に従事し、昭和27年10月26,27日の両日落慶法要を営むに至りました。

戦時中供出された梵鐘の代わりとして、一山会(坂文種報徳会の姉妹財団)の寄進を得て、梵鐘は再鋳され、昭和36年10月15日供養法会を営む事が出来ました。

本堂の御荘厳を整備し、客殿の建設も終わって、宗祖700回遠忌法会を、昭和40年4月24日より3日間厳修、更に宗祖御誕生800年法会、立教開宗750年奉賛法会を、昭和49年4月13、14日の両日厳修するに至りました。

尚、宗教法人法に基づく寺院規則の制定に際し、この時に護持地域等を考慮して、従来の「愛知別院」の名を改めて「名古屋別院」と称することなりました。

出典『高田の寺々』