京都別院
京都府京都市右京区鳴滝音戸山町11-34
TEL:075-462-1976
FAX:075-462-1971
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寺史・沿革
宗祖聖人が、甞て二条冷泉冨小路、或は二条の辺に寓居せられた事を追慕して、高田派第11世応真上人が、天文年中に一宇を建立し、柳原坊としました。
其後火災に罹り、堯恵上人が、慶長10年に、間之町押小路高田町に一宇を再建して、高田坊と改められました。
当初の建物は、豊公北の政所の化粧殿を移して本堂とし、本尊は宇治の恵心院に在った恵心僧都作の阿弥陀如来座像を以て御本尊としました。
その後、火災に依り諸堂悉く消失した為、天和3年、恵隆は命に依り、河原町に再建し本誓寺と称し、本山掛所となし又里坊と称した経緯があります。
高田坊所とも称したので、一般に高田御坊と尊称されておりました。
嘗ては夷川通に面していましたが、天明火災後は表門を河原町通に移しました。
後に、明治15年「専修寺別院」と改称しました。
境内奥地には御殿が建てられ歴代法主の宿所に当てられ、法主上洛に際して、本願寺法主等知名士の御訪問などがありました。
第22世堯猷上人は、京都大学に御出講の時に、ここよりお通いになられました。
昭和22年火災により、本堂、御殿等凡て烏有に帰した事に依って昭和36年、京都の西効宇多野の地に再建し、墓地と共に山内2ヶ寺と共に移りました。
一光三尊仏、桜町天皇は、本寺の霊仏「一光三尊仏を延享2年4月15日から5月15日まで、初めて河原町の高田山に出開帳の際、5月17日に、之を宮中に迎へ供養礼拝ましました。
而して同尺寸の模像を彫刻せしめ、宮中に安置し恭敬せられましたが、ご崩御なされたので、桃園天皇は御遺詔に依り、この三尊仏と翠簾を京都高田山に御寄進あらせられました。
爾来毎年1回ご開扉して供養法会を行っています。
桜町天皇33回忌に当たっては、女御青綺門院(皇太后)に赤銅花瓶一口をお供へあり、寛政4年には青綺門院の御遺命に依り、銅灯篭一対、御寄進あらせられました。
又寛政11年4月22日、桜町天皇は唐金花瓶一口を寄進、又有栖川宮幟仁親王妃、善喜院からは水引並華鬘を寄進、円台院宮から水引、戸帳、打敷を寄進あらせられました。
宝性院慧雲(恵雲)は本誓寺(京都別院)の開基恵隆の子として慶長18年誕生しました。
幼にして学に志し、初期の宗学者として名声もあり、東西の宗学者に先んじて、本典の講録を出版するなどその功績多し、著書、教行信証抄15巻、善信聖人絵伝抄、大祖聖人絵伝図説、興御書抄等刊本多く、高田派勤行集の編纂にも参与しました。
元禄4年79歳寂。
出典『高田の寺々』
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