別院のご紹介

関東別院

関東別院


東京都大田区西六郷4丁目22-12
TEL:03-3731-1458
FAX:03-3731-1454
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寺史・沿革

文政年間第18世円遵上人御在世時代、江戸神田練屏町に創設されました。

当時は、「門跡寺」と尊称され、格式の高い寺院として、江戸町内に知られ、 常在説教にも参詣者多く、常にお堂に満ちていたといわれております。

報恩講、又17年目の「一光三尊仏御開帳」には参詣者列をなし、練屏さんの名で 知らぬ者はなかったといわれております。

当時の落語の外題「宗論」でも有名な別院でもあります。

明治22年、堯熙上人は憲法発布祝賀の為、上洛練屏の別院に宿泊され、 3月2日、東西本願寺門主と共に参内、明治天皇に拝謁、御祝詞を言上されました。

尚2月中旬には有栖川宮威仁親王並同妃殿下は御渡欧の為、御暇乞に別院へ御越になり、 堯熙上人と懇談せられました。

同月下旬には、別院内に布教場が新築され、その落慶法要には堯熙上人の御親教が 行われました。

此の如く別院は法主御上洛時に宿所に当てられ、宮様方、他宗派の門主、管長方が、 御挨拶などに来ていられています。

大正12年9月1日の関東大震災に遭遇して全焼し、区画整理と、国鉄秋葉原駅 増改築の為、境内地の大部分を失う事となります。

この震災の時、高田派の篤信者、寺島繁藏は自宅仏前にて合掌端座して往生の素懐を 遂げたので、親戚協議し、仏縁浅からざる土地につき、高田本山に寄進を申し出ず、 依って、ここに堂宇を建立し、東京出張所として開設、常在説教が開始されました。

練屏町附近に在住の高田門徒はここに御縁を結ぶ事となりました。 この通称石原出張所は震災記念堂の近くにありました。

昭和10年頃、日曜学校が開設され、高田派末寺の東京各大学学生が奉仕する事となります。

浅草公園に於ける、各派合同の釋尊降誕花まつりにも参加して、教線は拡張されましたが 戦災にあい焼失する事となります。

これより先既に六郷町には関東別院の建設計画が進められており、1万坪の土地を、 六郷川河畔に買収し墓地の創設と礼拝堂も建立されました。

ここでも日曜学校が開設され青少年の教化と定例布教が行われております。

当時横浜別院も災害を受けていたので、之を吸収して、関東別院の本格的な 大計画が行われ、昭和28年当時としては、大変な努力で、本堂庫裡が落成し、 英心光が初代輪番として就任しました。

その間、岡道光、谷徳淳、松山親彦、長井眞琴、加藤忍海、山中見道、永忠雄、 長元孝等、それぞれ関東別院復興局長、或いは東京出張所長に就任して復興に 尽力今日の別院の基礎を築かれました。

昭和30年には入野広宣輪番に任せられ、鐘楼堂の落成を見て、東京高田婦人会が 設立されました。

昭和41年山中浩文輪番に就任、同40年には「一光三尊仏」をお迎えして開帳が 行われ、法主猊下の御親修にて盛大に法要が厳修されました。

昭和48年9月より壱億五千万円を以て、本堂の建立並庫裡の改築事業に着手、 昭和50年10月その落慶を見るに至りました。

出典『高田の寺々』