北海道別院
寺史・沿革
明治25年春、福井県鮎川願生寺住職、出見法泉が、縁故の信徒をたどって当区に立錫し、南二条東四丁目に山崎孝太郎より土地を賃借して説教場の創設を企て、開教の事情を本山に建議しました。
翌26年本山は服部亮厳を札幌教務所主任として派遣し、ここに専修寺札幌別院の基礎が定まりました。
服部主任は札幌は本道中枢の地なりとして教化拡張の目標を別院昇格にありとして一時帰国し、山川真源が初代輪番として着任します。
明治31年藤元法隆は駐在布教使として在勤3年にして、美唄、岩見沢に教線を拡げ説教所の開教と別院の発展充実に尽くしました。
明治35年2月専修寺別院と公称となり、山川輪番の代、篤信家谷川重佐エ門等が奔走して現在地に本山より600円の下附金を賜り明治36年3月本堂落成するにいたります。
仝年4月三国教林寺住職が三浦智覚二代目輪番とり、明治42年9月11日より16日まで開山大師650回遠忌法会は堯熙上人のご巡化で当区未曾有の盛儀でありました。
次いで大正2年津市仲安寺住職井上舜教輪番来道し前後約20年開教に身を委ね、当寺別院には常に一騎当千の青年僧を擁して市内南二条西九丁目の布教所で毎晩布教活動をし、開教北海道の揺籃の時代を画しました。
大正10年代の輪番には畑英揚、柳宝浄、千草寿磨の三氏が勤め、昭和4年8月堯祺法嗣の御巡化があり大法会を機縁に門末の親近連帯感を深めました。
昭和9年6月三国教林寺三浦智勝輪番となり、昭和12年開教50年記念法会を末寺と共催で営み物心の近代的な一体化を画一しました。
翌13年福井県加藤智春輪番となり、仝年北海道別院と公称を改める事になります。
次いで昭和15年東京山中見道輪番の代は大東亜戦争となり寺院の機能を失い、動乱の戦争の末期までは道内より畑徹秀、高島親海の二氏が輪番となり、佑事島義海が法務を担当しました。
終戦後昭和23年3月東京森閣龍輪番愛山護法の熱意をもって、門信徒の安定と正法興隆のため来道しましたが、仝年10月14日近火のため本営屋根を焼失する災禍に合い、その責をとって11月辞任することとなりました。
本山は日野晃総務を使して見舞慰問を行い、復旧のため本山は総代戸津高知、小川久作外10数名の復興委員を命じて復旧につとめ現在の本堂の再現と言う歴史をたどっています。
昭和32年武田広史輪番代行として赴任、この間道内の朝妻慈善が昭和35年7月まで代表役員の職に当たっています。
仝年3月実義真純が輪番として在勤、ついで昭和38年9月本川専定輪番来道し、越えて昭和44年対面所の改築、翌45年納骨堂を新築して寺宇の外観を整える大事業を完成しました。
昭和49年5月本川輪番が京都別院転出の後に道内より江藤道基輪番となります。
同年7月第1回仏教文化講座を開き、鸞猷法嗣の御親講、服部宗務総務総長講師による研修会にオール高田発展への意欲を燃やし、精力的に活動。
また昭和51年11月4、5日御法主猊下御親修によって報恩講を厳修せられ、いよいよ昭和52年10月1日より3日まで親鸞聖人生誕800年、立教開宗 750年奉讃大法会を御法主殿の御親修のもとに修行せられるを期して、当別院がこの地に法の流れを伝える礎を築いて85年の記念すべき年、勝縁に合う意義 を深くし、開基以来血のにじむ苦難に耐え開教精神を貫かれた先哲、門信徒へ報恩を感じて北海道別院開教史の緒となっています。
出典『高田の寺々』
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