高田本山 専修寺の歩み

円禧上人(えんきしょうにん)のご生涯

 親鸞聖人の600回御遠忌法会は文久元年(1861年)3月に勤修。このとき圓禧上人は45歳。思えば、御遠忌の準備は早くも上人の幼少のころから進められていた。
 そのなかでも、上人11歳の文政10年(1827)11月に起工された如来堂門(唐門)の建立は特に重要で、寛延元年(1748)7月に如来堂が完成して以来、建立が待ち望まれていた門であり、天保15年(1844)4月の上棟式に至るまで17年を費やしている。この間、圓禧上人は、15歳の天保2年(1831)12月9日に有栖川宮韶仁(つなひと)親王(有栖川宮家第7代)の王子となって学宮(さとみや)との名を賜り、20歳の天保7年(1836)10月25日に得度。翌年の天保8年(1837)11月には父君の圓祥上人が50歳にて示寂され、天保9年(1838)3月21日には、仁孝天皇より住持職の綸旨を賜って専修寺第20世圓禧上人として法燈を継職されるという大変な時期を過ごされている。
 圓禧上人の御学問については、御誕生の2年後の文政2年(1819)10月22日に遷化された専修寺第18世圓遵上人の行実に大きく影響されている。圓遵上人は有栖川宮職仁(よりひと)親王(有栖川宮家第5代)の王子として宝暦3年に専修寺に入室して以後、有栖川宮家との親密な関係は、圓祥上人、圓禧上人、圓禔上人(明治5年に堯凞と改名)と続く。有栖川宮家は学芸の造詣に深く、特に第5代職仁親王は和歌と書道に優れ、有栖川流の書を創設したことでも知られていた。その薫陶を受け専修寺に入室した圓遵上人は、寛政期の勧学堂を創立して教学の研鑚を奨励し僧侶の行儀を改革した。圓祥上人には幼少のころから仏教の内外典を教授し高田教学の将来を託され、圓禧上人もまた同様に学事に留意して学山高田の伝統を引き継がれた。こうして、天保期の本山夏安居(げあんご)は2月から6月までと、8月から12月までとの2期間に拡大して、ほぼ通年に開催されるようになり、多くの学匠を輩出したが、行信の問題についての論争も活発となり、宗祖600回御遠忌法会の前には、伊勢南北の末寺を二分する争乱となり、圓禧上人はその鎮静化に苦慮された。また、嘉永7年(1854)専修寺に入室された、有栖川宮幟仁親王第3子(実は近衛忠煕の子息)規宮(圓禔上人)の継職について、山内における意見の相違が顕在化したことも大きな心労となったようである。御遠忌は3月18日から28日までの11日間を御執行(ごしゅうぎょう)。圓禧上人は近侍衆の介助により御昇堂のところ、法会結願(けちがん)から1ヶ月を過ぎた5月8日(旧暦)に45歳にて示寂される。
 来春の750回忌御遠忌法会に向けて境内堂舎の修築・整備が進捗している今。こうして、圓禧上人の生涯を振り返るとき、我々は、上人が生涯を尽くして維持発展された高田山専修寺の興隆に更なる思いを馳せるべきであろう。
(宝物館主幹 新 光晴)

    第20世圓禧上人住持職綸旨